困難に立ち向かい、粘り強く実行していった
名リーダー 大久保利通

 新型コロナウィルスの感染者数が再び増加し、マスコミを賑わせる毎日で、国民全体が自粛ムードで厭世感が漂う中、政府が、“Go Toトラベルキャンペーン”を打ち出し、国民を困惑させています。今から150年前の明治維新の混乱期に初代内務卿(現在の内閣総理大臣)に就任し、混乱に惑わされず、日本を先進国に向上させた大久保利通を今回の題材とします。
 大久保利通は、1830年(文政13年)、薩摩国(現在の鹿児島県)に、下級藩士 大久保利世の長男として生まれています。
 幼少期は、加治屋町に移住し、西郷隆盛、税所篤、吉井友実らと共に学問を学び、親友・同士となっていきます。
 1846年(弘化3年)、藩の記録所書役助として出仕しますが、お由羅騒動では父 利世と共に連座し、罷免され、謹慎処分となります。後に、謹慎が解かれ、1857年(安政4年)、西郷隆盛と共に従目付となり、薩摩藩主 島津茂久の実父 久光に接近し、家格を上げ、政治の中心、京都に上ることを認められています。その後、倒幕運動を経て、明治維新の誕生に貢献しています。
 1871年(明治4年)、廃藩置県によって国内体制が一応整うと、政府首脳の関心は海外に向けられます。利通は、岩倉遣外使節団の副使として、木戸孝允、伊藤博文などと共に、随行しています。アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ドイツの6か国を訪問し、西洋文明の調査を経て、日本を欧米諸国並みに改革し、対等な関係を構築するため、西洋化を本格的に進めるべきと、利通は考えながら、視察しています。その中でも、利通は、1873年(明治6年)にドイツの宰相ビスマルクの万国公法に依拠した国際関係の欺瞞を喝破した演説に衝撃を受け、日本を欧米諸国並みの先進国にすることを意にしています。
 因みに、後に自由民権運動を起す中江兆民は、この時、面識がないのにも関わらず、利通に頼み込んで、岩倉遣外使節団に随行させてもらっています。
 帰国後、1873年(明治6年)、朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛、板垣退助の征韓論者と対立し、明治6年政変で、失脚させています。同年、内務省を設置して、現在の内閣総理大臣にあたる初代内務卿に就任します。
 就任後は、日本最初の近代学校教育制度に関する基本法令の学制を制定、収穫量(石高)の代わりに土地の価格に応じて所有者に金銭を納めさせる地租改正、徴兵令等を実施し、“富国強兵”をスローガンとして、他国との不平等条約の改正の目標を掲げ、殖産興業政策を推進していきました。
 その間に、1874年(明治7年)に江藤新平が中心となって起こした佐賀の乱、その後の台湾出兵、1877年(明治10年)、西郷隆盛を中心として鹿児島県、熊本県、宮崎県、大分県で起こった西南の役など、士族の不平不満が残る時代、一つ一つ問題を解決していきました。大久保政権が安定に向かっている最中、1878年(明治11年)5月14日、馬車で皇居に向かう途中の紀尾井坂で、不平士族によって殺害されています。
 大久保利通は、台湾出兵前に清国に派遣された時、万国公法に関する勉強をし、北京に50日間滞在し、イギリス、アメリカ、フランスの各国公使と会談をし、情報収集して、粘り強く談判をした結果、最終的に金銭賠償を得て、日本の台湾出兵を清国に義挙と認めさせることに成功しています。
 西郷隆盛との対決となった西南の役では、7か月に亘る壮絶な戦いにも関わらず、その間に、殖産興業の推進のモットーは忘れず、東京の上野公園で8月21日から11月30日まで、第一回内国勧業博覧会を開催しています。
 薩摩(鹿児島県)というと西郷隆盛と言われることが多いのですが、後にG5、G7の一員と言われる程にまで日本を成長させる礎をつくった大久保利通は、政治信念を貫いた名リーダーの政治家です。
 新型コロナウィルス感染症等の影響で、今後が不透明の中で舵取りを行っている経営者の方々は、大久保利通のように信念を貫き、時には、粘り強く相手と交渉を重ねて一つ一つ目標を突破していくことも必要ではないでしょうか。
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加藤 博司