幾多の障害にめげず理想を具現化し、夢の実現(ドリーム・カム・トゥルー)をさせた名経営者 ウォルト・ディズニー

 第5波のデルタ株を乗り越えたと思ったら、新年早々、オミクロン株の襲来で第6波が到来し、なかなか世界中が根絶することができないコロナ禍。今回は、1910年~1940年代の第一次世界大戦・世界大恐慌・第二次世界大戦と平穏な生活を過ごすことができない辛い時代に、世界中の人々に夢と希望と感動を提供し続けたウォルト・ディズニーを題材とします。

 ウォルト・ディズニーは、1901(明治34年)、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴで、父イライアス、母フローラの4男として生まれました。1906年、ディズニーランドのヒントとなるミズーリ州マーセリーンに移住し、1919年、18歳でペスメン・ルビン商業アートスタジオに就職していますが解雇されます。翌1920年、カンザスシティ・スライド・カンパニーに就職し、待望のアニメーション映画の製作に携わっています。1922年、ウォルトにとって最初に設立したラフォグラム・フィルム社は、親類、知人の援助を受けましたが、制作費倒れを起し、1年程で破産しています。その後1923年に、兄のロイとディズニー・ブラザーズ・スタジオを設立し、1926年、ウォルト・ディズニー・スタジオに改称します。1928年、トーキー短編映画「蒸気船ウィリー」で、ディズニーの象徴であるミッキーマウスが人気者になっています。1932年 「花と木」でアカデミー短編アニメ賞を受賞し、1933年「三匹の子ぶた」の主題歌「狼なんかこわくない」をヒットさせ、1934年「かしこいめんどり」で登場させたディズニーのもう一つの象徴ドナルドダックを大人気キャラクターにしています。その後、カラー長編アニメ映画「白雪姫」・「ピノキオ」・「ファンタジア」・「バンビ」を世に送り出しています。

 ウォルトは、アニメ映画の製作に飽き足らず、1955(昭和30年)に、世界中どこを探してもない夢のような遊園地『ディズニーランド』をロサンゼルスで開場させています。開園から1年間で入園者数360万人、2年半で入場者数1,000万人を超える人気テーマパークにしています。その後、人気作「眠れる森の美女」・「101匹ワンちゃん」・「メリー・ポピンズ」を公開しています。しかしフロリダのウォルト・ディズニー・ワールドの開園を見ずして、1966(昭和41年)、急性循環不全で逝去しています。

 ウォルトの人生は、あまりにも理想を追求することでした。そのため制作費・建設費の高騰による資金調達、制作時間との闘い、他社による従業員の引き抜き、従業員のストライキと、『ヒトとカネ』では大変な苦労の連続でした。うつ病を患い、人間不信に陥った時期もありました。ウォルトは、その都度、“願望を実現したいという思いから、理想を具現化し、子どもの頃から夢想する純真無垢な喜びを世界中に提供する”という理念を持ち続け、金融機関等の融資者、従業員に説いて問題を解決しています。

 ウォルトは、「白雪姫」の製作時には、スタッフを集めて、真っ暗な部屋で、一本のスポットライトの中に立ち、演技を交えながら「白雪姫」の物語を語りはじめました。そして白雪姫になり、時には意地悪な妃、また七人のこびとなどになりきって、それぞれの声を使い分けました。迫真の演技は三時間に及んだそうです。終わった時には、スタッフはすっかり心を奪われて感激し、涙を浮かべる者もいたようです。「白雪姫」の制作費の高騰で追加融資が必要な時には、試写時に金融機関を招いて、ウォルト自ら説明を行い、追加融資を取り付けています。

 ウォルトは、“私のしたことで一番重要なことは、人々をコーディネートして、一定の目標に向けてまとめあげること”として、アニメーション制作、テーマパーク建設の各大プロジェクトを成功させています。

 ディズニーランドは、東京、上海、香港、パリにも建設されて好評を博し、ディズニー映画は、常に注目されています。ウォルト・ディズニーの理念、“世界中に感動を与える”は現代にも引き継がれています。

 中小企業の経営者の方も、『ヒト・モノ・カネ』で苦労されることもあると思います。カネについては、現在、金融機関の融資だけではなくて、クラウドファンディング等での調達も可能となっています。ウォルト・ディズニーのように、理想を具現化し、夢の実現(ドリーム・カム・トゥルー)をしようとする考え方が、問題解決の糸口になることもあるのではないでしょうか。

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加藤 博司