現場主義を推し進めてスズキを世界的企業に成長させた名経営者 鈴木 修
未だ出口のみえない第4波が到来しているコロナ禍で、右往左往している政治、行政に苦悩させられている経営者が多い中、60年もの間、自動車会社 スズキの経営者として君臨し、様々な危機を乗り超え2021(令和3)年3月、会長職の退任を発表した鈴木修を今回の題材とします。
鈴木修は、1930(昭和5)年、岐阜県益田郡下呂町(現在の下呂市)に生まれ、1953(昭和28)年中央大学法学部を卒業し、中央相互銀行(現在の愛知銀行)に入行しています。1958(昭和33)年にスズキの2代目社長 鈴木俊三の娘婿となり、同時にスズキに入社します。1963(昭和33)年 同社取締役、1967(昭和42)年 常務取締役、1973(昭和48)年 専務取締役、1978(昭和53)年6月に第4代目の代表取締役社長に就任しています。
鈴木修は、入社早々、「婿養子を追い出せ」とばかりに社内内紛に巻き込まれ、義理の叔父にあたる第3代目社長ともそりが合わず、アメリカ支社、東京支店に飛ばされ続ける不遇な時期がありました。しかし、1959(昭和34)年、甚大な被害をもたらした伊勢湾台風が上陸し、流れが変わりました。浜松にある本社の四輪工場が壊滅的な打撃を受け、豊川新工場を建設し、軽トラックのスズキライトキャリーの量産を決断します。そしてその3億円(現在価値で約3,000億円)もの設備投資の責任者として鈴木修が任命されます。修は特有のケチケチぶりを発揮し、作業をするとび職の飯場に出向きヤル気を出させ、3億円の予算に対し、2億7,000万円で建設を成し遂げました。修は実績を示し、皆が納得する形で、昇格していきました。このとき、修は、“企業をしょって立つには、文句を言われない実績を積み上げ、周囲に実力を認めさせていくしかない。”と決意しています。
鈴木修は、1975(昭和50)年の排ガス規制の対応が遅れて経営危機に陥ったスズキを立て直し、1979(昭和54)年に軽自動車アルトの発売を主導します。1981(昭和56)年、当時自動車業界ナンバー1のGMと資本・業務提携を結び、技術支援、教育を受けた技術者をすくすくと成長させています。1983(昭和58)年、インドで合弁会社を設立し、工場を稼働させて軽自動車アルトをベースとしたマルチ800を発売しました。これがインド市場で空前の大ヒットとなり、インド市場で確固たる地位を築いています。また、1993(平成5)年に軽自動車ワゴンRを販売し、軽自動車の商品力を高めていき、入社当時は売上高50億円の会社を2020年3月期で、3兆4884億円にしています。
鈴木修は、売上高等の業績推移を見ますと順風満帆の経営者人生に見えますが、1996(平成8)年、インド政府と対立して一度は撤退を余儀なくされます。2007(平成19)年には、有力な後継者で娘婿の小野浩孝を病気で亡くし、2009(平成21)年には、提携先であるGMの破綻。その矢先にVW(フォルクスワーゲン)の資本・業務の包括提携締結の後の2011(平成23)年にVWとの資本・業務提携解消後の訴訟、トヨタ社長 奥田碩によるスズキの軽自動車販売の牙城崩しと様々な危機を乗り越えてきました。そしてその都度、鈴木修は、自分の足で現場に出向き、自分で考えて判断し、素早く行動して危機を乗り越えています。
最近の傾向として、経営者は、幅広く意見を求めて経営判断をしていくことが主流となっていますが、大きな問題をかかえた時に、意見を募ってばかりいては、経営判断に遅れが生じ、取返しがつかなくなることもあります。
スズキというと事業承継について常に問題視されていました。鈴木修もそのことを考えており、2007(平成19)年には、娘婿の小野浩孝等、後継者にしたい人材はいました。しかし、死去や病気により断念せざるを得ない状況になっています。
経営者の方々は、コロナ禍、人材等、様々な問題をかかえて大変ですが、年齢に関わらず、鈴木修のように、自分の足で現場に出向き、自分で考えて判断し、素早く行動することは危機を乗り切る為に、肝要なことではないでしょうか。
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加藤 博司