“やってみなはれ精神”を引き継ぎ、
サントリーを大成させた名経営者 佐治敬三
前回は、サントリーの前身、洋酒の寿屋を創業した鳥井信治郎を題材とさせて頂きました。今回は、洋酒の寿屋を引き継ぎ、サントリーとして大成させた佐治敬三を題材とします。
佐治敬三は、1919年(大正8年)、大阪市で、父 鳥井信治郎、母 クニの二男として生まれました。病弱ながらも、小学校を無事、卒業しました。敬三が13歳の時、寿屋が昭和恐慌の影響をうけて、業績が振るわず、ウィスキーの仕込みが出来ない状態でした。父 信次郎は、資金援助の見返りに、敬三を佐治家の養子としたようです。ここに佐治敬三が誕生しましたが、それまでと同じく、鳥井家の人間と生活しています。
敬三は、11年年長の鳥井吉太郎が、寿屋の跡取りと決まっていたので、浪速高校高等科に進んで理科を履修し、研究者を目指して1940年(昭和15年)大阪大学理学部化学科に入学しました。この年は、敬三にとって大きな影響を与えました。寿屋の跡取りの長男 吉太郎が死去し、敬三が、寿屋の跡取りを目され、目指していた研究者から人生の大転換を迫られることになっています。1941年(昭和16年)から太平洋戦争が勃発し、敬三も学徒出陣で、海軍技術科士官入隊し、そのまま1945年(昭和20年)終戦を迎えました。(昭和19年平賀好子と結婚し、平成20年11月、後のサントリー4代目 社長 佐治信忠が誕生したが、出産時に妻 好子が死去)
敬三は、暫く終戦の鬱屈した精神状態から立ち直れず、父 信治郎のもと、寿屋がトリスウィスキーを発売し、盛り上がっているにも関わらず、家庭用ホーム雑誌「ホームサイエンス」創刊し、社業には力が入りませんでした。
1947年(昭和22年)、後の臼杵工場を自ら立ち上げたのを機に社業に力が入り出し、1949年(昭和24年)大平けい子と再婚し、専務取締役就任したことで跡取りの意思が固まり、病弱になった父 信治郎に代わり采配を振るうようになっています。
1955年(昭和30年)、トリスバー、サントリーバーを続々誕生させ、『洋酒天国』を創刊し、ウィスキーの寿屋を世間に印象づけ、快進撃を続けました。この宣伝部に在籍していたのが、後の芥川賞受賞者 開高健、直木賞受賞者 山口瞳です。
1960年(昭和35年)、敬三は、父 信治郎にビール事業進出を打ち明かし、“やってみなはれ”という了解を得て、ビール事業進出を決意しました。その年、敬三は、寿屋の代表取締役に就任しています。
1961年(昭和36年)、ビール事業に進出しました。キリンビール、アサヒビール、サッポロビールの3社寡占状態を切り崩すことは困難で、当初は、シェア率1.0%弱で苦戦の連続でありました。
敬三は、赤字のビール事業では、生にこだわり、モルト(原酒)にこだわり他社のマネをせず、次々に製品を発売し、宣伝をして徐々にではありますが、シェア率を上げていきました。しかし実際に、ビール事業が黒字化するのは、2008年(平成20年)まで待たなければいけませんでした。(ビール事業は45年間赤字事業)
そうした中でも、1963年(昭和38年)、寿屋からサントリーに社名を変更し、ビール事業の赤字をウィスキー、清涼飲料水、健康食品等の事業で積極果敢に挑戦し続け、父 信治郎の“やってみなはれ精神”を引き継いで、サントリーを躍進させていきました。
敬三は、1990年(平成2年)でサントリーの代表取締役を兄 吉太郎の長男 信一郎に譲って、退任し、1999年(平成11年)、80歳で逝去しています。
佐治敬三は、元々、事業承継を受ける立場ではなく、性格も本来、内向的で、経営者に向かないタイプのようでしたが、 後継者という立場から、自らを奮い立たせて、サントリーという会社の広告塔になっていきました。
自分の後継者(3代目)という面でも、兄 吉太郎の長男を後継者とし、4代目は、自身の長男 信忠と同族会社としては理想的な事業承継を行っています。
企業を存続する上で、社員に企業理念・スピリッツ、佐治敬三のような名経営者の経営姿勢を後進に伝えていくことも肝要となっています。
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加藤 博司