人材育成に注力し、多数の人材を羽ばたかせた
リクルートの創業者 江副浩正

2014年(平成26年)の東京証券取引所に上場し、売上高1兆円企業として、またタウンワーク等のコマーシャルで話題を集めているリクルートの創業者 江副浩正を今回の題材とします。
江副浩正は、1936年(昭和11年) 高校教師の父 良之、母 マス子の長男として、大阪府天王寺区に生まれています。江副は、裕福でない家庭に育ったが、三番目の母、きくゑの尽力により、中学、高校を甲南学園で過ごし、東京大学文学部二類に入学しました。大学2年の時に、東京大学学生新聞会のアルバイトをしたのをきっかけに、数名の有志が集まり、1960年(昭和35年)企業の求人募集広告業の“大学新聞広告社”を創業した。1962年(昭和37年)「企業への招待」を創刊して好評を博して、1963年“日本リクルートセンター”に社名を変更し、法人化しています。 その後は、就職雑誌「就職情報(のちのB-ing)、女性の転職雑誌「とらばーゆ」、アルバイト雑誌「フロムエー」、住宅情報誌「月刊住宅情報」、中古車情報「カーセンサー」等、情報を武器に社会を動かしていきました。
1984年(昭和59年)社名を“リクルート”に変更し、いち早く、コンピューターを導入して、江副は、財界の要職に付くこととなります。1988年(昭和63年)、リクルートの関連会社のリクルートコスモスの未公開株が、上場前に当時の要職についていた政治家に渡り、店頭登録当日又は翌日に株を売却して売却益を得た“リクルート事件”により、江副は特捜部から追及を受け、リクルートの役員を辞任しました。1992年(平成4年)には、リクルートが借入金1兆4,000億円で経営危機に陥り、江副自身が所持していたリクルート株を全株、ダイエーに譲り渡し、リクルートと関係が切れています。
江副は、2013年(平成25年)2月、東京駅構内で転倒し、亡くなるまでリクルートを愛し続けていました。
江副の素晴らしいところは、リクルート事件、借入金問題で多大な損害を与えましたが、リクルート社内外にリクルートのDNAを遺したことにあります。その手法は、3つの経営理念にあるようです。


① 社員皆経営者主
  • 会社の中に事業ごとに小さな会社をつくり、権限を委譲する。
  • 社員一人ひとりに経営者の自覚を持たせ、起業家精神を養う仕組みに社員持ち株制を推奨。
② 圧倒的な当事者意
  • 自らがかかわる事業やプロジェクトに留まらず、その相手となる顧客企業や業界全体、消費者、社会に対しても当事者になったつもりで接する姿勢をもつ。
  • リクルート社員では、ミッションを確認する際に必ず上司から発せられる質問が「お前がどうしたい」、会社から命令されるのではなく、何がしたいという意志が重視される。
③ 個の可能性に期待しあう
  • チャンスを与え、成果を出した人は惜しみなく賞賛する。社員同士もお互いを認め合って切磋琢磨することが、会社全体の成長につながるという考え。
  • 新入社員が広告を受注した場合、氏名、受注内容を書いたお祝いの垂れ幕をぶらさげる。目標を達成するとフロア全体の社員が拍手し、他の社員から握手攻めを受ける。という儀式を行う。

リクルートは、個人の強い力を組織の力に変えるナレッジシェアリングが営業、開発の強さを支えているようです。
個人のノウハウやスキルを分析して、誰もがまねできるモデルにして、型化にする。成功事例から核となる部分を抜き 出して、他の人が参考にできるような形にする。
江副自身、晩年は、個人の借金等でお金には苦しんだようですが、最大1兆4,000億円あった借金を12年で返済したリクルートのDNAを誇りに感じているのではないでしょうか。
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 加藤 博司