「論語と算盤」で道徳経済同一を唱え、
新一万円札の肖像となった渋沢栄一
新元号の令和がはじまる直前の2019年4月、2024年から新札の肖像に、一万円札が渋沢栄一、五千円札が津田梅子、千円札が北里柴三郎になることが発表されました。今回は一万円札の肖像になる渋沢栄一を題材とします。
渋沢栄一は、1840年(天保11年)埼玉県深谷市の大農家の長男として生まれ、幼少の頃から家業の畑作や藍玉の製造、販売、養蚕を手伝いながら商売の素養を身につけました。父から学問の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から論語などの読書を学び、22歳の時、江戸に遊学をしています。
渋沢は、23歳の時、幕藩体制に疑問を抱き、尊皇攘夷運動に参加し、高崎城の乗っ取り計画に身を寄せています。24歳で一橋家の平岡円四郎に見出されて一橋家に仕官し、歩兵の募集、財政の改革、新事業の運営などで頭角を現しました。
1867年、渋沢が27歳の時、15代将軍 徳川慶喜の名代 徳川昭武に随行して渡欧し、西欧の近代的産業設備、経済制度などを目の当たりにし、深い知識を得、影響を受けています。帰国後、江戸幕府が廃止されていたので、仕官せず、日本で最初の株式組織「商法会所」を静岡に設立しました。一旦、渋沢は、明治新政府の大蔵省に仕え、税制、貨幣、銀行などの国家財政・経済に取り組みましが、財政運営面で、時の権力者 大久保利通と対立し辞職しました。以後は実業界に入り、第一国立銀行を手始めに、東京海上火災、東京電力、帝国ホテル、サッポロビールなど、1916年(大正6年)に第一銀行の取締役を引退するまで、500社程の会社設立、経営に携わっています。その後、渋沢は、1931年、91歳で亡くなるまで、孤児院、学校、社会福祉活動に尽力しています。
渋沢は、「論語と算盤」で、論語の精神に基づいた道義に則った商売をし、儲けた利益は皆の幸せのために使うという道徳経済同一の理念を打ちたてています。通常、実業界では、三菱、三井、住友、安田など財閥を形成して、一部の企業が、利益を独占・寡占することが多いのですが、渋沢は、利益の独占、寡占を嫌いました。実際に、三菱の創始者、岩崎弥太郎から海上輸送業で、寡占することを持ちかけられても、断っています。
渋沢栄一の言葉には、現代のコンプライアンスを大事にする社会、人の採用などに関する重要な言葉が多数あります。
- 商売をする上で重要なのは、競争しながらでも道徳を守ることだ。
- 富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができない。
- 人生の行路は様々で、時に善人が悪人に負けたごとく見えることもあるが、長い間の善悪の差別は確然とつくものである。
- 人を選ぶ時、家族を大切にしている人は間違いない。仁者に敵なし。私は人を使う時には、知恵の多い人より人情に厚い人を選んで採用している。
- 事を成し、物に接するには、必ず「満身の精神」をもってせよ。些細な事であっても、いい加減に扱ってはならない。
- 言葉は禍福とともに引き起こす入り口のようなものだ。ほんのちょっとした言葉であっても、軽率に口にしてはならない。
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加藤 博司