独創性を重んじトヨタの下請けを蹴って
ホンダを世界に羽ばたかせた名経営者 本田宗一郎

 サッカーJ1の湘南ベルマーレの曹貴裁監督のパワハラ解任、NPBの広島東洋カープで在任5年のうちに3連覇を果たしたにもかかわらず、選手への鉄拳報道がもとで解任させられた緒方監督とパワハラが社会問題になっていますが、社員に手をあげても社員に慕われたホンダの創業者 本田宗一郎を今回の題材とします。
 本田宗一郎は、1906年(明治39年)静岡県浜松市にて、父 儀平、母 みかの長男として生まれ、1922年(大正11年)浜松市の二俣尋常高等小学校を卒業し、東京都湯島の自動車修理工場アート商会に入社しました。1928年(昭和3年)暖簾分けのかたちで、浜松市にアート商会の支店を設立、1937年(昭和12年)東海精機重工株式会社を設立しました。東海精機重工業は、トヨタの下請け工場をしていたが、太平洋戦争に突入してからはピストンリングの開発と量産で軍需省の管轄下に置かれ、軍需工場として戦後を迎えました。1945年(昭和20年)三河地震で東海精機重工業が倒壊したのを契機に、トヨタの下請けからの脱局を図り、所有していた全株を豊田自動織機に売却して退社し、1年間休業した後、1946年(昭和21年)ホンダの前身である本田技研工業を浜松市に設立し、代表取締役に就任しています。
 1949年(昭和24年)8月、後に宗一郎とともに、ホンダの発展の両輪となる藤澤武夫が入社し、技術・開発は宗一郎、営業・管理は藤澤が担当し、二人は見事なほどに分担を守り、互いに不可侵であった。藤澤の経営参画により、資金調達・営業の苦労から解き放たれた宗一郎の製品開発の獅子奮迅の働きによりホンダは、大成長しています。
 ホンダは、当初は、スーパーカブ、ナナハン(750CC)の二輪車から、1961年(昭和36年)四輪車(自動車)製造に参入し、マン島レース、F1優勝等も重なり、世界に羽ばたいていきました。1973(昭和48年)、シビックCVCCの低公害エンジンの開発が認められ、ホンダの四輪事業は、日本のモータリーゼーションの最後の波に乗ることに成功したのを花道に宗一郎、藤澤が経営の第一線から退いています。この時、宗一郎66歳、藤澤武夫62歳という若さです。
 その後、宗一郎は、誘われた公職をこなし、1991年(平成3年)、84歳で死去しています。
 宗一郎は、人のマネが嫌いで、独創性に殊更こだわり、常に「何がよその会社と違うんだ」と聞き、他社との違いを明確に打ち出していきました。その一例が、当時、他社がチャレンジしていないマン島レース、FIの参加で、技術力を上げていきました。
 宗一郎は、“成功は99%の失敗に支えられた1%である”として、試みることの大切さを終生強調した経営者で、試すことが一番大切としており、他者に対しても同様にしています。
 宗一郎らしい表現として、“課長、部長、社長も、包丁、盲腸、脱腸も同じだ。要するに符丁なんだ。命令系統をハッキリさせるために符丁があるんで、人間の価値とはまったく関係ない。人の偉さというのは、いかに世の中に奉仕をしたかということだ”として、平等ということを根底にもち、真実、技術の前には、上下の隔てがないことを身をもって示していました。
 宗一郎、藤澤とも身内や親族を会社に入れていませんが、わが社(ホンダ)の運営方針として、下記のようなホンダDNAの一つの集大成が言語化されています。

  • 一、 常に夢と若さを保つこと
  • 二、 理論とアイデアと時間を尊重すること
  • 三、 仕事を愛し職場を明るくすること
  • 四、 調和のとれた仕事の流れを作り上げること
  • 五、 不断の研究と努力を忘れないこと

1954年(昭和29年)作成

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加藤 博司