EQの弱さゆえ、関ケ原の合戦に敗れた名将
石田三成

 安倍晋三首相が健康不安から、政権をおりる事態となり、菅義偉氏、石破茂氏、岸田文雄氏で争うこととなった自民党総裁選挙、時を同じくして、野党第一党の立憲民主党と国民民主党の合併から行われる党首選挙と、今後の日本の進むべき道を左右する選挙が行われようとしています。今回は、今から420年前の1600年(慶長5年)9月15日、日本が東軍、西軍に真っ二つに分かれて戦った関ケ原の合戦の西軍の実質の将、石田三成を題材とします。
 石田三成は、1560年(永禄3年)、現在の滋賀県長浜市に、石田正継の次男として生まれました。1574年(天正2年)、長浜市の観音寺に来ていた豊臣秀吉に見いだされ、その近習となり、順調に秀吉の評価を受け、1583年(天正11年)、織田信長亡き後に行われた賤ケ岳の合戦に出陣し、加藤清正らの賤ケ岳の七本槍の次ぐ、「八本目の槍」として活躍をしています。
 1585年(天正13年)、秀吉が関白に就任した際、関白の諸太夫12人を置いたのに伴い、三成は、治部少輔に叙任され、翌年1586年(天正14年)当時、日本の貿易を牛耳っていた堺奉行となりました。九州の島津征伐では、負けて許しを乞う島津家と豊臣秀吉との仲を取り持ち、1590年(天正18年)、小田原北条氏攻めに出陣し、その後も東北・奥州の九戸政実の乱では、軍監として騒ぎを打ち消し、日本中の揉め事に対峙しています。
 1592年(文禄元年)、第一次朝鮮出兵(文禄の役)が起こり、増田長盛、大谷吉継とともに、朝鮮に出兵した大名軍の総奉行となり、大名軍に兵糧食、武具などの輸送をする兵站を中心に後方支援を行いました。しかし、食糧不足と朝鮮軍の反撃にあい、戦況が徐々に悪化し、和議を申し入れています。
 1594年(文禄3年)、九州の検地、北関東・南東北の検地を行い、1595年(文禄4年)に、佐和山国(現在の滋賀県)19万4千石の正式な城主となっています。
 1597年(慶長2年)、朝鮮再出兵(慶長の役)が始まり、国内(名護屋)での後方支援で活躍しています。一方では、蔚山城の戦いの際、苦しい戦いだったため在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案されましたが、戦線縮小を反対する豊臣秀吉に、三成の親戚である福原長堯らの軍監が戦線縮小の提案に参加した大名を報告し、その大名が、譴責、所領の一部没収されるという事態が発生しています。
 1598年(慶長3年)豊臣秀吉の死去により、慶長の役が終結し、翌年の1599年(慶長4年)に豊臣家の護り役の前田利家が死去すると、豊臣方と徳川方との対立が加速し、1600年(慶長5年)9月15日関ケ原の合戦がおこります。その後はご存じの通り、徳川家康率いる東軍が勝利し、西軍だった三成は捕らわれの身になり、斬首されて生涯を閉じました。
 三成は、戦国武将が戦いにくれる真っ只中、国・郡・村別の生産高一覧表を表わした御前帳徴収(基本帳簿)を作成し、太閤検地による石高制の確立をしました。「人掃令」による戸口調査を行い、兵農分離政策の刀狩令を打ち出し、新たな農村支配システムや税体系を構築していきます。これらは江戸時代を支える社会・経済システム構築に貢献しています。三成は、豊臣秀吉が、キリシタンを惨殺した時に、1人でも救おうと奔走したり、博多を中心とした海外貿易を盛んにしようとした痕跡があります。江戸幕府のような鎖国政策をとらず、江戸時代と違った日本がうまれた可能性もあったようです。
 しかし、社会・経済システムの構築では力を発揮した三成ですが、人心掌握は、苦手だったようです。例えば、豊臣秀吉が死去して、朝鮮出兵(慶長の役)から帰国した大名を名護屋で迎えましたが、疲弊して帰ってきた大名に労いの言葉もなく、歓待も行わなかったようです。第一次朝鮮出兵(文禄の役)で、自分の身内や部下の軍監への不公平な対応により、損失を受けた大名にも詫びることが出来なかったりと、EQ(こころの知能指数)の弱さが仇となって敵をつくり、関ケ原の合戦では、三成側である西軍の方が有利な陣形をとっていたにもかかわらず、敗戦しています。
 因みに、三成と同じ近習で、犬猿の仲といわれる加藤清正と三成は、本当は互いの力を認め合っている仲だったという説もあります。これも三成の人の機微に欠けているEQの無さが生んだ仲違いで、結局、豊臣政権を保とうとしている者同士が、敵となって戦うことになってしまいました。
 現代でも、IQ(知能指数)が高く、仕事も出来るのですが、EQの鍛錬ができていない為、結果がなかなか出せない経営者の方もいるようです。
 弊社プレジデントワンは、EQを教育する『経営者教育』のカリキュラムを設けてします。ご興味のある方は、ご連絡下さい。


加藤 博司