町の洋品店から経営を追求し続け、
グローバル企業に押し上げた名経営者 柳井 正

 新型コロナウィルス感染症の影響がいまだ残り、企業経営も予断を許さない日が続いています。このような状況下でも2020年8月決算期の連結決算で、売上高2兆円、営業利益1,300億円の業績をあげているユニクロの社長 柳井正を今回の題材とします。
 柳井正は、1949(昭和24)年、山口県宇部市に生まれ、1967(昭和42)年に山口県立宇部高等学校を卒業し、同年、早稲田大学政経学部経済学科に入学します。1972(昭和47)年、早稲田大学を卒業後、ジャスコ(現在のイオンリテール)に入社するも、9カ月で退職し、実家である山口県宇部市のメンズショップの小郡商事に入社します。その間、日常的なカジュアル衣料の販売店を着想し、全国展開を目指し、研鑽していました。因みに、柳井がカジュアル衣料に拘った理由は、接客を必要とせず、商品が良ければ売れるという点が自身の性に合ったためのようです。
 柳井は、12年間経営に携わった後、1984(昭和59)年に父の後を受け、小郡商事の社長に就任し、同年、【ユニークな衣料(Unique Clothing Warehouse)】略称『ユニクロ』と銘打って、広島市に第1号店を開店します。1号店は今と異なり、有名ブランドを安価で販売するという形態でしたが、偽物が混入してしまったことによりユニクロの評判を落とし苦境に追い込まれます。これを契機にオリジナル商品の開発を始め、中国地方を中心に店舗を拡大していきます。1991(平成3)年、ユニクロ路線が軌道に乗り始めた時、社名をファーストリテイリングに変更しています。1998(平成10)年、ユニクロのフリースが爆発的に売れ、1999(平成11)年8月決算期で売上高1,000億円を超えました。2000(平成12)年には2,000億円超え、2001(平成13)年にも、4,000億円を超えて、倍々ゲームのように売上高が伸長していきました。2002(平成14)年、フリースブームは落ち着き、売上高3,000億円と減少し、ユニクロ限界説がささやかれたことがありました。しかし2008(平成20)年にヒートテックが社会現象を起こす程ブームとなり、2020(令和2)年現在では、国内・海外を合わせて2,200店舗、売上高2兆円のグローバル企業になっています。
 柳井は、「企業の成功の方程式なるものは全くなく、現場主義を徹底的に磨き込むという地道な作業が尊ばれる。社員一人ひとりがもっと深く考えて、すぐに実行していくという経験値の積み重ねのようなものが、ブレークスルーに繋がっていく。」そして、「毎日の商売の中で、現場、現物、現実を真剣に見据えて、願望を交えず、顧客や市場を誰よりも熟知し、現実に負けずに理想を持って、革新的な方法で、最速のスピードで駆け抜けなければならない。各自が自問自答して最適解を見つけることが必要である。」と、社員に、“即断”、“即決”、“即実行”の方針を伝え、自立性を促しています。
 柳井は、経営者に対し「危機、つまりリスクを裏返すと、プロフィット要するに利益に通じる。会社経営では、危機は利益と同義語。リスクを正面から100%取って、人よりも少しでもうまく経営する。そうすることによって、より良く儲かる」と述べ、リスクを怖がり過ぎず、時には、リスクに立ち向かうことが利益に繋がり、1つずつ矛盾点を解決していくことが経営であると述べています。
 柳井は、「商売をするうえで、お客様を常に観察することは非常に大事なことだ。観察するとデータが作れる。つまり数値化できる。何か手を打つと、その数値が変わるから、手を打ったことが正しかったかどうか証明できる。」とし、数値化を大切にし、一つひとつの事象を検証しています。
 柳井は、ドラッガーの著書を愛読し、「成功のイメージは忘れ去り、企業は常に変わらなければ生き残れない。“日々の一歩一歩あるいは一進一退の悪戦苦闘の連続こそが、将来の姿に繋がっていく。将来を決めるのは現実・現在の自らの行動である。”とグローバル企業になった今でも、一つひとつの行動を大切にしています。
 成功者の見本のような柳井正ですが、野菜事業、ファミクロ、スポクロ事業等、多数事業で失敗し、撤退を余儀なくされています。しかし原因を究明し、次の計画の成功に繋げています。
 柳井正は、創業者ではなく二代目です。コロナ禍の影響もあり、企業経営に奮闘されている二代目、三代目の経営者の方も、柳井のように経営の本質を捉えながら、失敗を恐れず、突き進んでいってください。
 弊社プレジデントワンは、経営者に必要な思考を身につけるためのマンツーマンプログラムを設けています。ご興味のある方は、ご連絡下さい。


加藤 博司