本質を捉えて天下布武に邁進した名将 織田信長

 

 新型コロナ感染症の影響で、NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』の最終回が、年を越えて2月7日になるようです。今回は、最終回に主人公 明智光秀によって本能寺の変で落命した織田信長を題材とします。
 織田信長は、1534(天文3)年、織田信秀の次男として尾張に誕生しています。1547(天文16)年、吉良大浜城攻略において初陣を果たし、1552(天文22)年、父 信秀が病死したことにより、織田家の家督を継ぐことになりました。
 1560(永禄3)年、桶狭間の戦いで今川義元を打ち取り、織田信長の名を天下に知らしめています。1567(永禄10)年、稲葉山城の戦いにより、美濃を平定し、1568(永禄11)年に畿内を平定して、足利義昭を室町幕府15代将軍にしています。
 1570(元亀元)年の姉川の戦いにより、浅井、朝倉氏連合軍を打ち破り、1573(元亀4)年、信長を裏切った足利義昭を追放し、室町幕府の幕を閉じさせています。
 1575(天正3)年の長篠の戦いで、武田勝頼に大勝し、伊勢長島一向一揆を平定した後、1576(天正4)年、天下人としての象徴、安土城築城開始し、1579(天正7)年、安土城を完成させています。
 1580(天正8)年、石山本願寺との和睦が成立し、1582(天正10)年3月に武田勝頼を打ち破り、武田氏を滅亡させ、中国地方を制圧する準備を進めていた矢先の6月2日に、家臣の明智光秀に急襲され、本能寺で自刃に追い込まれ、48歳で亡くなっています。
 織田信長軍と言えば、鉄砲隊が有名ですが、鉄砲は、まず九州の諸大名の間に広まり、1549(天文18)年に薩摩の島津氏が加治木城攻めの際に用いたのが、実戦で使用された最初の戦いとされています。しかし、鉄砲は命中率が低く、弾丸込めに時間がかかることから、なかなか中心的な武器にはなりませんでした。そんな欠点を知り尽くしたうえで、信長は、大量の鉄砲を一度に投入して、鉄砲隊を組織化し、戦いを優位にすすめていきました。有名なのは1575(天正3)年、武田勝頼軍との戦いで大きな成果を上げた長篠の戦いです。そして、それ以降の戦いを従来の騎馬戦から鉄砲戦に変えていきました。
 信長は、他にも商人等の通行税をなくして城下町を発展させると楽市楽座を推進し、銭を流通させ、土地情報を得る為に検地を行い、家臣の領地に石高制を実施し、社会を一変させていきました。
 その後は、家臣の豊臣秀吉が天下統一し、同盟者の徳川家康が江戸幕府を成立させ、戦国時代を終焉させています。
 そんな織田信長軍ですが、決して最強ではなく、三方ヶ原戦いでは、武田信玄に敗戦し、手取川合戦では、上杉謙信に負けたうえに、織田信長軍は意外に弱いという評価をうけています。
 しかし、信長は、明智光秀、浅井長政、松永久秀、荒木村重、足利義昭等に背かれ、最後は、明智光秀に討ち取られ、残念な最期を遂げているものの、持ち前の革新性を活かして、尾張の一有力者から、全国統一をほぼ成し遂げたことは、戦国時代を天下統一に導いた中心人物の一人として豊臣秀吉・徳川家康と共に『三英傑』として評価されています。
 経営者の方々は、コロナ禍で、大変難しい舵取りを強いられています。織田信長から学ぶことは、最強の強みがなくとも、業態等の本質を捉え、経営を見直すことによって、この難関を乗り切れることではないでしょうか。
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加藤 博司