時代を先取り、ファッション伊勢丹の礎を築いた創業者 小菅丹治

 ここ数年来、外国人の訪日数が増加し、日本政府観光局(JNTO)によると、2016年の外国人の訪日数は、2,400万人に達し、遡ること5年前、2011年の約4倍なっています。増加の源泉となっているのが、日本人の「おもてなし」と言われ、その「おもてなし」の代表格として三越伊勢丹があげられています。三越伊勢丹は、2011年、三越と伊勢丹が合併して出来た会社です。今回は、その一方の会社 伊勢丹創業者の小菅丹治を題材とします。
 小菅丹治は、江戸時代の安政6年(1859年)、相模国(現在の神奈川県)の農家、父 野渡半兵衛、母イチの四男として生まれました。幼少期は、寺子屋に通い、家の手伝いをしていました。嫡男でなかったので、明治4年(1871年)、12歳で丹治は、本郷の伊勢屋で知られた日野島庄兵衛の経営する伊勢庄での丁稚奉公が始まりました。丹治は、研究熱心で努力家であったので、15年間の奉公で、伊勢庄で番頭にまで昇進していきました。そんなある日、得意先の伊勢又の経営者 小菅又右衛門に見込まれ、又右衛門の長女 華子の婿となり、小菅丹治となりました。丹治が28歳の時、明治19年(1886年)に奉公先に伊勢庄から独立し、暖簾分けという形で、江戸の神田明神下に呉服商「伊勢屋丹治呉服店」を開業しました。暖簾分けと言っても、顧客は引き継げなかったので、自店で顧客をつくるしかなく、創業時の明治19年は、松方デフレ財政で不況の真っ只中にあったので、苦しい船出となりました。丹治は、不況を乗り切るため、流行に左右されずに売れる浴衣地、特製裏地と市場より安い価格で販売し、好評を得て、呉服店としての土台を固めていきました。その後は、時間を有効に使い、日銭を稼ぐため、人通りの多い柳原土手に夜店を出店して、木綿織物を販売して評判をはくして、伊勢屋丹治呉服店の常連客(リピーター)を増やしていき、また、“父母にはかせる孝子足袋”のキャッチフレーズで、「孝子足袋」を爆発的にヒットさせ、中堅呉服店としての地位を築いていきました。
 丹治は、商品の改良に余念のない日々を送り、どこに行っても、商品を弄り回し、糸から織り、色柄、使い勝手といった細部にわたるところまで、改良、工夫の余地がないかを考えることを常として、和歌、俳句、川柳、美術の知識を加味しながら、自店での真のオリジナル商品を開発、販売していきました。
 丹治の斬新な商品づくりとして興味深いのは、“同じ柄、同じ模様、同じ題材を使っても、新しい切り口で料理すれば、新しいものが生まれる。それには、確たるテーマのもとに、首尾一貫した主張が打ち出されなければならない。”として、既存商品であっても、色、柄、題材の組み合わせ(コーディネート)で斬新な商品ができると考えているところです。この考えは、大企業に比べて、資金等の資源(リソース)が不足している中小企業にも応用できるのではないでしょうか。
 丹治は、商品だけでなく、自店の外商に「伊勢屋丹治呉服店」の店章入りの赤風呂敷を持たせて、東京名物として市民に親しまれ、宣伝効果を抜群に発揮させています。これは、後に伊勢丹百貨店の特徴のある紙袋も、赤風呂敷ような宣伝効果を狙ってつくったと思われます。
 丹治は、創業当初からの花柳界、実業界、名家の得意先を持つという目標を達成し、「帯と模様の伊勢丹」として、当時の江戸の五大呉服店と発展させました。
 丹治は、商売の閑散月の2月、8月に、店員に販売競争をさせて、販売額の上位者に賞品を出して、活性化を図る試みをした時、店員のモチベーションが上がったのを思い出し、店員(従業員)を経営に参加させることにして、明治40年(1907年)個人商店「伊勢屋丹治呉服店」から、匿名合資会社「伊勢丹呉服店」に改組しました。
 丹治の子供が全員女子であった為、婿養子をとり、長女ときの婿、儀平を鍛え上げて、後継者とし、社員には、「伊勢丹店憲三綱五則」を纏め上げ、社員の商人としての心構えを遺して、大正5年(1916年)、丹治は58歳で亡くなりました。
 丹治の経営者としての考えは、後継者、社員に引き継がれ、時代の先端を行くファッションの伊勢丹として現在にも受け継がれています。
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 加藤 博司