事業性を重視し、融資実行した安田財閥の創始者 安田善次郎

 マイナス金利での収益悪化、地域金融行政の大改革に乗り出している森金融庁長官の出現で、従来の不動産担保一辺倒の融資が問題視されている中、「捨てられる銀行」、「銀行はこれからどうなるか」等の書籍が出版され、銀行、信用金庫などの金融機関のあり方が問われる時代になってきました。今回は、銀行を創設し、当時、銀行王と言われた安田財閥(現在のみずほファイナンシャルグループ、損保ジャパン、明治安田生命等)の創始者 安田善次郎を題材とします。

 安田善次郎は、1838(天保9)年、富山藩の下級武士 安田善悦の四男六女の三男として生まれましたが、天保の飢饉等で、長男、次男、四男は亡くなり、善次郎が安田家の嫡男となっています。12歳頃から野菜などの行商を行い、家計を助けています。行商をしている時、藩主前田家出入りの両替商の手代が、大坂から藩主の御用金を持参して、富山城下にやってきた際、勘定奉行(藩の財政を預かる重職)が大勢の供回りを連れてわざわざ城下はずれまで出迎えしたのを見て、大商人が上級武士を平伏させる力があることを知った善次郎は、大商人になることを決意しました。
 富山に居ては出世できないと感じた善次郎は、16歳頃から何度も江戸に出ることを試み、2度失敗した後、20歳で日本橋の玩具問屋で従事しました。22歳の時、銭両替商 広田屋林三郎商店に入店して、善次郎は、複雑な両替業務についての知識、技量を短時間で会得し、主人や同業の銭両替商の信用を勝ち得て、順風満帆進んでいましたが、24歳の時、母親の千代が亡くなり、大商人に早くなろうとして焦り、乾坤一擲、銅銭の投機に乗り出して失敗して、広田屋林三郎商店を退職することになりました。
 善次郎は、広田屋林三郎商店の退職金などを元手に、日本橋に海苔鰹節砂糖店兼銭両替商 安田屋を開業しました。商売は成功していましたが、好事魔多し、強盗に押し入られ、一夜で蓄えの殆どを失ってしまいました。気を取り直して、商売に励み、今度は、当時の日本橋の一等地に、得意の両替商を専業とした安田商店を開業しました。
 善次郎は、その後、明治維新と共に事業を拡大させ、1880年(明治13年)42歳で、安田銀行を開業して成功し、信頼を得て、日本銀行理事に任命されたり、経営悪化した銀行、事業の建て直しなどを行い、日本財界の危機を救済しています。個人的には、東京帝国大学(現在の東大)に安田講堂を寄贈し、社会的貢献をしています。
 善次郎は、個人融資を控え、生産活動を行う事業家に融資することを徹底しました。銀行経営の要諦である、融資を焦げ付かないようにする為に、相手方の身許及び信用、事業の優位性・有用性を徹底的に調べ上げました。実際に、彼は、懇意にしていた経営者の融資の申し出に、“その事業はうまくいくとは思えませんのでお断りさせて下さい”と断っています。逆に、東京市長 後藤新平の都市改造計画プロジェクトの予算8億円(当時の国家年間予算16億円)にみんなが尻込みしましたが、善次郎は、本件の採算と社会的意義を考慮し、融資実行を即答しています。(善次郎の死により、実現できなかった。)また、他の金融機関が不景気だと見て融資を抑制すると、彼の安田銀行は、貸出を増強し、ひとり勝ちすることが多かったようです。
 残念ながら、1921(大正10)年、83歳で、大磯別荘にて、暴漢に刺殺されてしまいました。彼が生きていれば、東京の都市計画がもっと早く具現化していたでしょう。
 安田財閥の創業者となった安田善次郎ですが、前述のように、元の身分は高くありませんでした。
 中小企業の経営者の方々も、しっかりとした事業方針を持ち、守っていくことによって、傑出した存在になることも可能ではないでしょうか。その為、企業として、まず、何をしないか、何をするかを明確にすることが大切なのは、安田善次郎が教えてくれています。善次郎は、銀行、保険の金融関係は積極的でしたが、製造業には消極的で、創業しても早めに撤退することが多かったようです。
 安田財閥の創始者の安田善次郎ですが、事業承継という観点から、一度、ヒトの面で失敗しました。彼の死後、彼の理念を基に、一族が結束し、財閥として再構築しています。
 企業としては、事業承継は、ヒト、モノ、カネが重視されますが、創業者、中興の祖の理念、考え方を引き継いでいくことも重要ではないでしょうか。
 弊社プレジデントワンは、税金面以外でも、相続・事業承継問題に積極的に取り組んでいますので、相続、贈与でお悩みの方は、ご相談を承ります。


 加藤 博司