独自の発想力で時代を作った名経営者
小林一三

 企業としてのビジネスモデルの創造がさけばれる中、無から沢山の事業を創出していった小林一三を今回の題材とします。

 小林一三は、1873年(明治6年)1月3日、山梨県北巨摩郡韮崎町(現在の韮崎市)で、父甚八、母菊野の長男として生まれました。母の菊野が、一三の生後まもなく死去したため、養子であった父の甚八は、実家の丹沢家に戻り、後に田邊家へ婿入りしました。祖父母も既に亡くなってしまったため、一三は、本家の大叔父 小林七左衛門(一三の祖父の弟)に引き取られました。養祖母の房子に愛情をそそがれて、一三は、地元の韮崎学校(高等科)、成器舎を経て、慶應義塾大学に入学し、在学中には、塾寮の機関誌の主筆を務めたり、山梨日日新聞に小説「練絲痕」を連載されたりして、文学青年で劇通でした。大学卒業後、三井銀行に入社しましたが、周囲の期待ほどには昇進できず、1907年(明治40年)、34歳の時、三井銀行の上司で、北浜銀行の岩下清周などに誘われ、証券会社の支配人になるため、大阪に赴任しましたが、証券会社の設立が立ち消えになったため失業してしまいました。
 一三は、失業時に新しい鉄道会社 箕面有馬電気鉄道(現在の阪急電鉄)の設立に参加し、実質的に経営の実権を握ることになります。しかし、箕面有馬電気鉄道は、大阪神戸間等の大都市を結んで人気を博していた阪神電車の後発でありました。大阪梅田から箕面、宝塚までの路線には都市らしい都市もなく、田園と原野の中を走る電車には、「とんぼかいなご、空気くらいしか乗らないだろう」と言われていました。
 一三は、その人気のなさを逆手に取って、沿線の土地を安価で買収し、郊外に宅地造成開発を行うことで付加価値を高めようとし、またサラリーマンにでも購入できるよう、割賦販売による分譲販売を行い、成功を収めました。
 一三は、1910年(明治43年)、箕面に動物園、1911年(明治44年)には、宝塚に大浴場の宝塚新温泉パラダイスをつくりました。結果的に動物園は、猛獣の飼育が難しく、維持費が嵩んで1916年(大正5年)に閉園、また宝塚新温泉パラダイスは、当時、風紀上、好ましくないということで閉鎖しました。
 しかし、転んでもただでは起きない一三は、宝塚新温泉パラダイスの脱衣場を舞台とし、プール自体を客席として少女唱歌隊に歌を歌わせました。その後、宝塚少女歌劇養成会として、楽器、声楽、踊り、歌劇ついて学ばせ、現在の宝塚歌劇団の原形をつくっています。
 1929年(昭和4年)には、大阪梅田に、日本で初めてのターミナルデパートの阪急百貨店を開店させ、1936年(昭和11年)阪急職業野球団、後の阪急ブレーブスを結成させて、阪急沿線の価値を創造していきました。
 一三の阪急の経営戦略は、鉄道経営の草分けであり、その後の東急の五島慶太、西武鉄道の堤康次郎に大きな影響を与えていきました。
 一三は、阪急グループのみならず、映画の東宝、東京電燈等の経営にも従事し、再生させています。
 経営者としての一三は、“ビジネスの目的は顧客の創造”を実践しています。興味あるエピソードしては、箕面有馬電気鉄道が開通時、乗客が数えることができる位でガラガラの状態であるときに、“新しく開通した神戸行きの急行電車、綺麗で早うて、ガラアキで、眺めの素敵によい涼しい電車”というキャッチコピーでPRしています。
 一三の逆転の発想、価値の創造は、現代の企業においても色あせず、十分、見習う点が多いようです。
 事業承継においては、“私が死んでもタカラヅカと阪急ブレーブスは売るな”と言い残していますが、阪急ブレーブスは、1988年(昭和63年)オリックスに売却され、小林家としては、残念な結果となっています。
 小林一三の経営者としての才能までは、子孫に引き継がれなかったようです。

 弊社プレジデントワンは、アンドロイドと人工知能を融合させて、経営者に姿、声を似させて、経営者の会社に対する思いや考え、仕事に対する姿勢等を教え込ました「経営者アンドロイド」 https://keieisyaroid.com/ で、円滑な事業承継をサポートしています。

詳しくはこちらから

加藤 博司