率先垂範、言行一致を実践し、危機を乗り切った名経営者 土光敏夫

 昨年来、東芝の存続問題が世間を騒がせています。実は、東芝の存続が危ぶまれたのは、今回が初めてではなく、1965年(昭和40年)にもあって、その時、危機を乗り切った東芝の経営者が今回の題材とする土光敏夫です。

 土光敏夫は、1896年(明治29年)、岡山県御津郡大野村に、農業を営む父 菊次郎と母 登美の次男に生まれています。長男が生後間のなく死亡した為、実質、長男として育ちました。
 敏夫は、地元の私立関西中学で過ごした後、1917年(大正6年)、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)に入学し、教育方針である“理論や理屈に走るより、まず専門の技術や知識を身につけるべし”という教えをまもり、よき技術者を目指しました。その時、書物でタービン(流体がもっているエネルギーを有用な機械的動力に変換する回転式の原動機の総称)と出会い、その後の敏夫の人生に大きな影響を与えました。
 1920年(大正9年)、敏夫は、東京石川島造船所に入社し、社内でのタービンの第一人者として、技術者で頭角を表し、1936年(昭和11年)、石川島造船所と芝浦製作所が共同出資した石川島芝浦タービンに転籍し、技術部長として活躍しました。第二次世界大戦の敗戦を経て、敏夫は、1946年(昭和21年)4月、50歳で社長に就任し、従業員とその家族を守るため、銀行との資金確保の徹夜交渉、取引先との精力的な営業が実り、親会社の石川島重工業よりも早く、戦後の苦境を乗り切っています。
 1950年(昭和25年)、敏夫は、苦境に陥っていた親会社の石川島重工業の社長として復帰し、再建に取り組みました。
 再建にあたって、従業員との情報共有に気を配り、自らリーダーシップを発揮して発行した社内報第一号を、会社の入口に立って、出社してくる社員の一人ひとりに手渡した。結果、経営合理化等の経営姿勢が浸透し、朝鮮戦争の特需ブームがあいまって、人員整理なしに石川島重工業の再建を成し遂げました。ブラジル進出を果たした後、今度は、1960年(昭和35年)、石川島重工業と播磨造船所の合併を成し遂げ、石川島播磨重工業(IHI)を発足させ、1964年(昭和39年)、IHIの社長の座を後進に譲っています。しばらくすると、今度は、経営難に陥っていた東芝からの要請を受け、1965年(昭和40年)に社長に就任しました。しかし、敏夫にとっても、東芝の経営再建は、容易な仕事ではありませんでした。
 まず、敏夫は、人材活用に突破口を見出そうとして、組織内の上位者が下位者に対して積極的にチャレンジを行い、それに対して下位者が上位者に対して積極的にレスポンスを返すという『チャレンジ・レスポンス経営』を行い、活発な情報や意見交換で、組織を活性化していきました。中期計画として①資産の効率化、②生産体制の確立、③経営管理体制の整備、④技術開発の強化、⑤販売体制の拡充の5項目を挙げ、企業体質の抜本的強化に取り組んでいます。また、昇降機(エレベーター)、原子力、住宅、衛生通信等の新規事業分野にも積極的に進出し、東芝再建を果たして、1972年(昭和47年)社長の座を後進に譲っています。その後、経団連の会長を経て、1981年(昭和56年)に当時の鈴木善幸首相、中曽根行政管理庁長官の要請を受けて、第二次臨調会長に就任して、国鉄、電電公社、日本専売公社の民営化を果たし、3K(コメ、国鉄、健康保険)の赤字解消等に尽力を尽くし、職務を全うして、1988年(昭和63年)に91歳で亡くなっています。

 土光敏夫というと、自身の食卓をNHKに放映された『メザシの土光さん』で有名となりましたが、彼の真骨頂は、何事にも率先垂範で、自ら行動し、言行一致で、これをやると言えばやる。という姿勢ではないでしょうか。
 翻って、ここ数年の東芝は、土光敏夫の『チャレンジ・レスポンス経営』のポジティブな姿勢ではなく、『チャレンジ』がトップダウンの半強制的命令を示すものとして、ネガティブな意味合いに変わり、未達成のまま不正会計(粉飾決算)で、利害関係者をだまし続け、社会的信頼をなくしてしまいました。

 企業を存続する上で、事業承継のほか、社員に企業理念・スピリッツ、土光敏夫のような名経営者の経営姿勢を後進に伝えていくことも肝要となっています。
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加藤 博司