志とはなにか

 「志を以って万事の源とする」。吉田松陰が記した名言のうちのひとつです。リーダーに組織の理念や目指すものを伝えていく力が求められることはもちろんですが、それ以外の方々にも、このことばは生きていくうえで大きな指針になるのではないでしょうか。

 多くの偉人の伝記を記した小島直紀氏は、志とは具体的になにか、その条件を3つあげています。人生を貫き通すテーマを持つこと、生きていく上で譲れない原理原則を持つこと、そして言行一致です。志を立てること、人生の目標、組織の目標を立てることは、それ相応の困難が伴います。しかし、それ以上に困難が伴うことがあります。それは、数多くの先人が気付いているように、志を日々忘れずに昇華させていくこと。いわば志を磨きつづけることは、それを立てるということよりも大変なことなのもかも知れません。

 一直線に人生の頂に向かって突き進むことも大切ですが、現実には如何ともし難いことも発生します。それに対して、幾多の伝記小説を執筆した城山三郎氏は著書『打たれ強く生きる』のなかで「第三の道」の重要性を訴え、千利休と呂宋(ルソン)助左衛門の生涯を比較しています。利休は戦国時代、堺の豪商でもありましたが、羽柴秀吉の後光を得て茶の文化を発展させ、黄金の茶室や聚楽第の建設に関わり名声を上げた人物でもあります。その利休は何等かの原因で秀吉と袂を分かってしまいます。その原因がなんであったのか今となっては知る由もありませんが、翻意して秀吉に媚びるか、逆らって殺されるか、という局面に陥ってしまいます。皆様方がご存知のように、利休が選んだ判断は自ら命を捨てるということでした。ところが、助左衛門の場合は違いました。助左衛門も利休と同じく堺の豪商であり、あまりに優雅を誇ったため、秀吉の評を落としてしまいました。果たして助左衛門は利休と同じような運命をたどるのでしょうか。しかし、彼は違いました。このエピソードはのちに大河ドラマにも描かれたように城山氏が情調豊かに描いていますが、彼は秀吉に処断されるまえに、その時代、誰も思いつかなかった第三の道を選び抜きます。それは、日本からの脱出です。彼は命を落とさずフィリピンに渡り、後年はカンボジアにて国王の厚い信任をうけて再起を成し遂げ、現地の発展に大いに寄与したと伝えられています。城山氏は、夢を追ってひたむきにかけぬけ未来に向かって生き続けた彼をこのように言っています。「人生には第三の道があることを信じ、第三の道に生きた男でもあった」と。

 改めて考えてみると、志とはなんでしょうか。アメリカの心理学者アブラハム・マズローの欲求五段階説を引用すると、欲求は下位から生理的欲求、安全欲求、社会的欲求、尊厳欲求、そして自己実化欲求へと階段が上がっていきます。まさにこの志というのは、最上位の自己実現欲求、つまり、自分の能力を引き出した創造的活動と同義であるともいえます。自分自身がどのように社会とかかわっていくかということを明確にすることであり、明確にしたものを忘れることなく、現状に満足することなく、磨き続けるということでもあります。この強さというものが、人間としての足腰につながっていくのではないでしょうか。  最後に、冒頭に紹介した吉田松陰はこのようにもいっています。「皆に問いたい。人はなぜ学ぶのか。私はこう考える。学ぶのは知識を得るためでも、職を得るためでも、出世のためでもない。人にものを教えるためでも、人から尊敬されるためでもない。己のためだ。己を磨くために、人は学ぶのだ」。学ぶということは、己を磨くということ。そして、それは志を磨くことにもつながっていきます。

 今回もお読みいただきありがとうございました。自分自身とは何であるのかを考えつづけ、志を燦然と掲げつづける。そんな生き方が、今こそ求められているのではないでしょうか。


 

加藤 滋樹