本業消失危機をチャンスに変えてイノベーションを起こした 名経営者 古森重隆

 古くは、石炭から石油へのエネルギー転換、最近では、欧米での自動車のEV化等、急速な事業転換に迫られることがあり、転換に対応できず、企業倒産、廃業に至ることがあります。今回は、写真フィルムのデジタル化により、本業消失の危機を乗り越えた名経営者 富士フィルムの古森重隆を題材とします。  古森重隆は、1939年(昭和14年)9月、旧満州に生まれました。1945年(昭和20年)の終戦で、満州からの引き上げで大変な苦労をしています。幼少の頃から、文学等に勤しみ、東京大学を卒業後、1963年(昭和38年)、富士写真フィルムに入社しました。
 重隆は、入社時の配属先は、経営企画部でしたが、デスクワークに飽き足らず、営業に配属を希望し変更してもらいました。当時、写真フィルム業界は、アメリカのコダック社がダントツで、業界を席捲していました。
 重隆は、営業課長時代から、写真市場のデジタル化を予感し、コンピュータで編集して一枚のフィルムに打ち出すだけで良いという技術に脅威を感じ取っていました。しかし、当時は、写真の感度、解像度でデジタルがアナログに追いつくのは、30年程先という一般的な見通しでした。しかし彼は、デジタル化に対する備えをしていました。
 重隆は、1996年(平成8年)、富士写真フィルムヨーロッパ社の社長を経て、2000年(平成12年)、富士フィルムの社長兼COO就任し、2003年(平成15年)、最終権限のあるCEOに就任しています。
 2000年のCOO就任当時、富士フィルムの業績は、過去最高益で、順風満帆のように思われましたが、写真フィルム市場にデジタル化が押し寄せ、2000年を“100”とすると、10年後の2010年は“5”まで激減していきました。売上の6割、利益の2/3を写真フィルム事業で占めていた富士写真フィルムには大打撃でした。
 重隆は、富士写真フィルムのもつ技術(シーズ)の棚卸をさせ、その上で世の中が求めるもの(ニーズ)と突合せさせて、
①既存の技術で既存市場に適用できることは未だ他にないか。
②新しい技術で既存市場に適用できることはないか。
③既存の技術で新しい市場に適用できることはないか。
④新しい技術で新しい市場に適用できることはないか。
を検討し、富士フィルムの技術力で、市場のニーズに対してどのような可能性を秘めているのかを認識して、医薬品、化粧品、高機能材料といった今後、市場拡大が見込める分野で十分応用できると確信して、写真フィルム事業とは異業種の医薬品業界、化粧品業界に参入しています。
 写真フィルムと化粧品とは関連性がうすい印象があるのですが、写真フィルムの素材の約半分がコラーゲンで成り立っており、写真フィルムで培った抗菌化技術を組み合わせて、他社との化粧品と差別化された独自の商品を販売しています。
 リーマンショック、為替円高という製造業にとっては大きな危機を、写真フィルム技術を転用した医薬品、化粧品、液晶材料事業などに経営資源をシフトさせて、この危機を乗り切った富士フィルム 古森重隆の企業経営は、移り変わり の激しい現代の企業には、参考になるのではないでしょうか。
 2006年(平成18年)富士写真フィルムから富士フィルムに社名変更しました。写真フィルム事業が衰退する中、写真文化を守り続けるということで、社名にフィルムという名前を残しているところに、富士フィルム、古森重隆の社会的責任(CSR)の姿勢を垣間見ることができるようです。
 2012年(平成24年)、写真フィルム業界のリーディングカンパニーのコダックがアメリカ連邦地裁に破産申請を行い、企業が消失してしまいました。過去の遺産が捨て切れず、次の一手を打てなかったことが大きな要因となりました。
 古森重隆は、2017年(平成29年)現在も、富士フィルムの会長兼CEOで、現役バリバリの経営者です。リーダーの彼がいなくなった時の富士フィルムがどうなっていくのか。
 企業を存続する上で、社員に企業理念・スピリッツ、古森重隆のような名経営者の経営姿勢を後進に伝えていくことも肝要となっています。


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加藤 博司