世界の食を変えた日清食品の創業者 安藤 百福

 NHK 朝の連続ドラマ『まんぷく』が好評のようです。その『まんぷく』に登場する安藤百福を今回の題材とします。
 安藤百福は、1910年(明治43年)、台湾に生まれました。幼少期に両親を亡くし、祖父のもとで暮らして、14歳で高等小学校を卒業しました。義務教育修了後、祖父の繊維問屋を手伝い、その後、図書館の司書になりましたが、1932年(昭和7年)、台湾で東洋メリヤスを設立し、成功を収め、その間、立命館大学専門部経済学科(夜間)にて学び、1934年(昭和9年)修了しました。
 順調に事業を続けていた百福ですが、第二次世界大戦時には、軍用機エンジンの横流しの疑いで留置されたり、1948年(昭和23年)には、GHQに脱税の嫌疑をかけられ、巣鴨拘置所に収監されて、個人財産を全部没収されています。その後も、大阪に新設された信用組合から懇願され、信用組合の理事長に就任しましたが、信用組合が破綻し、無一文になってしまいました。その時、百福は、47歳になっていました。
 百福は、失敗を糧として、昔なじみの大工に、10㎡の小屋を作ってもらい、ラーメンの開発に1年間睡眠を惜しんで没頭し、ようやく作りあげたのが「チキンラーメン」です。当初、「チキンラーメン」は、問屋業者の評判が悪く、前途多難なスタートでしたが、百福の“消費者に手間をとらせたくない”という強い思いが、消費者に伝わって、国民食になっていきました。
 百福は、1966年(昭和41年)、世界に「チキンラーメン」を広めるため、欧米視察旅行に出かけ、その旅行でのちのカップヌードルの開発につながるヒントを得ています。欧米では、「チキンラーメン」を入れるどんぶりがないので、「チキンラーメン」を二つに割って紙コップに入れ、お湯を注いでフォークで食べ始めました。それを見て、百福は、即席めんを世界商品にする為、めんをカップに入れてフォークで食べられるようにしようと閃き、カップヌードルの開発に取り掛かり、1971年(昭和46年)販売しました。当初は、売れなかった「カップヌードル」でしたが、1972年(昭和47年)2月の連合赤軍による浅間山荘事件で、雪の中を包囲する機動隊員が、湯気の上がる「カップヌードル」を食べていたのが、テレビ中継で大写しされたのをきっかけに、火がついたように売れ出し、大ブームを起こしました。そして百福は、特許権及び実用新案を独占することなく広く業界に公開し、カップめんを製造したいという27社に使用許諾しています。
 百福は、「チキンラーメン」、「カップヌードル」の成功に飽き足らず、米のインスタント食品の「カップライス」を販売しました。今度は、問屋業者の評判がよく、成功が期待され、滋賀工場に30億円のライン設備を「カップライス」用に建設しましたが、価格等の関係で売れませんでした。百福は、時間をかけて消費者の需要を掘り起こそうとする意見が大半を占める中、消費者の声に従い、撤退を決断しています。その後、1985年(昭和60年)会長に退き、2007年(平成19年)天寿をまっとうされ、亡くなっています。
 百福は、“人生に遅すぎるということはない。50歳でも、60歳でも新しい出発がある。”という言葉を発して、常に、新たな発見を求めていました。また、百福は、“消費者の目を大事”にして、「チキンラーメン」、「カップヌードル」は育て上げ、「カップライス」は、撤退しています。
 現代の経営者で、製品、商品のコモディティ化を嘆かれる方をお見受けすることがありますが、百福のように、“消費者の目”を大事にして、“常に新しい発見”を求めていけば、差別化戦略も可能になるのではないでしょうか。  弊社プレジデントワンは、経営者育成サービスを行っています。興味のある方は、ご相談ください。

加藤 博司