スティーブ・ジョブズにリスペクトされた
名経営者 盛田 昭夫

 失われた10年、20年と言われ続けている日本ですが、今から30年程前、『ジャパン アズ ナンバーワン』と日本企業がハリウッドの映画会社を買収したり、ニューヨーク等の一等地のビルを購入して、世界を闊歩していました。その中心にいたSONYの創業者 盛田昭夫を題材とします。
 盛田昭夫は、1921年(大正11年)、愛知県名古屋市に、父 造り酒屋の14代目久左衛門、母 収子の長男として生まれました。小学校、中学、高校と進み、大阪大学理学部物理学科を卒業しました。第二次世界大戦では、海軍技術中尉時代に後にSONYの創業者となる井深大と知り合い、1946年(昭和21年)、SONYの前身である東京通信工業を設立しました。
 東京通信工業は、戦後まもなく物資不足、資金不足で苦労していましたが、盛田は後に幹部となる岩間和夫、大賀典雄、木原信敏等をこの時代に入社させています。1951年(昭和26年)テープレコーダーG型、1955年(昭和30年)トランジスタラジオを開発し、その発売と同時に社名をSONYに改称し、世界にはばたくことを宣言しています。
 その後も、SONYは、カラーテレビに革命をもたらし、1974年(昭和49年)には、世界の生活を変えたウォークマンを世に出して、世界的な企業に変貌していきました。
 盛田は、1959年(昭和34年)代表取締役副社長、1971年(昭和46年)代表取締役社長、1976年(昭和51年)代表取締役会長に就任し、1993年(平成5年)に会長の座を退くまで、SONYの屋台骨を支えていました。
 盛田は、後年インタビューで、“サイエンス、エンジニアリング、テクノロジーといった分野の場合、じっと考えていても創造力というのは出てこない。一つのターゲット=目標を設定して、そこへ向かっていくことによって、クリエイティビティが出てくる。目標のためにはどうしたらよいか、ということで、逆に技術を開発していく。仕事のトップの非常に大事な使命は、新製品の目標設定である。”として、エンジニア、社員の隠れた潜在能力を引き出し、現状の殻を破って創造する場をつくっていきました。
 盛田は、理系出身者ですが、製品開発には直接関わらず、セールス、資金調達等の分野でSONYの経営を支えています。
 盛田は、オリジナルなビジョンを掲げてそれを実現させ、広く社会に普及させた伝道者として評価されています。
 スティーブ・ジョブズは、上記のような盛田をリスペクトしてやまなかった。SONYの成功に学び、盛田亡き後の時代の転換点で、経営に失敗したSONYの姿を、反面教師として更に学んでいます。
 SONYは、創業者の井深大、盛田昭夫亡き後、フロンティアスピリットを失って迷走していきました。創業者の思いが忘れられたようです。
 社員に企業理念・スピリッツ、盛田昭夫のような名経営者の経営姿勢を後進に伝えていくことも肝要となっています。
 弊社プレジデントワンは、アンドロイドと人工知能を融合させて、経営者に姿、声を似させて、経営者の会社に対する思いや考え、仕事に対する姿勢等を教え込ませた「経営者アンドロイド」で、円滑な事業承継、企業理念・スピリッツ、名経営者の言葉を後進に伝授していくことをサポートしています。ご興味のある方は、ホームページをご覧ください。

加藤 博司