絶望的な状況から執念で藩政改革を
成功させた名君 上杉鷹山

 6月1日に新型コロナウィルスでの非常事態宣言が解除され、日常生活が徐々に戻ってきている感がありますが、企業の経済活動が、元に戻るには、かなりの時間がかかるようです。過去にも天災、天然痘等の疫病、飢饉がありましたが、江戸時代に財政難で危機的状況の時に米沢藩の藩主となり、危機を乗り切り、次世代に引き継いだ上杉鷹山を題材とします。
 上杉鷹山は、1751年に、日向国高鍋藩(現在の宮崎県)6代藩主、秋月種美の次男として生まれました。1760年、9歳で、米沢藩主、上杉重定の養嗣子となり、1767年に16歳で、家督を継ぎ、9代目米沢藩主となっています。
 上杉家は、関ケ原の合戦で、会津120万石から米沢30万石に減封され、3代目藩主の綱勝が世継ぎを決めず急死した為、更に半分の15万石に減らされました。しかし120万石時代からの多くの家臣を養わなければならず、藩の財政は大赤字で、借金総額も大きなものとなっていました。8代目藩主の重定は、米沢藩領を幕府に返上することまで考えた程の窮状でありました。そんな時に鷹山は、藩主を引き継いでいます。
 鷹山は、1767年から1785年に隠居するまでの第1期、1787年から亡くなる1822年の第2期に藩政改革を行っています。
 第1期の藩政改革は、①竹俣当綱、莅戸善政等の適材適所の人材登用、②藩主を含めた大倹約に基づく財政緊縮、③漆、桑、コウゾの各100万本植立て計画に代表される地場産業の基盤づくり、④人口減少の防止等の4つの政策を打ち出しました。しかし改革を理解しない勢力の反対や、領民に改革の意図が理解されず、 改革の中心人物であった竹俣当綱が、自身の慢心や専横により失脚し、鷹山が隠居したことにより、道半ばに終わっています。
 1787年、隠居した鷹山に、第11代将軍徳川家斉から直々に、藩政改革を任され、10代目米沢藩主、上杉治広と共に第2期藩政改革を行っています。
 第2期藩政改革は、支出の更なる削減を家臣団に理解させ、藩の立て直しに全力で取り組んでもらうためには、現状の厳しい状況をよく理解してもらう必要があるとして、米沢藩の財政状況を記録した会計帳簿を全領民に公開しています。また、地元の豪商本間家より2,500万両を借入、財政復興度のチェックリストを作成し、計画の進捗状況、修正点を掲げて、厳しい監視や統制を加えて、改革に導いています。鷹山の死の翌年1823年には、これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、米沢藩は、借財を完済しています。
 鷹山の藩政改革が、米沢藩領民に根付いたのは、①領民が豊かになる社会、②領民が参画して共に創る社会と目的を明確にし、“あるべき姿”から逆算して、「今何をすべきか」を考えるバックキャスティング思考を取り入れたことと、鷹山自身が儒学者の細井平洲などから実学を学び続けたことなど、真摯な姿勢が、多くの領民に共感を得たことが挙げられます。
 同時期には、松平定信の寛政の改革(1787~1793年)、少し後には、水野忠邦の天保の改革(1830~1843年)が行われていますが、鷹山の藩政改革のようには、成功をおさめることはできませんでした。
 鷹山の藩制改革との違いは、鷹山が、多くの藩士、領民らに主体的に藩政再建の必要性と改善策を理解させたのに対し、幕府の改革は、必要性及び改善策を十分に領民に理解させることができなかったことではないでしょうか。
 アフターコロナでは、経営者の方々は、事業計画等の見直しが必要になり、従業員の方々の協力が必要となってきます。
 鷹山のように“あるべき姿”から逆算して「今何をすべきか」を考えるバックキャスティング思考を取り入れ、従業員と共に考えていくのもよいのではないでしょうか。
 バックキャスティング思考の取り組みは、味の素・花王・協和キリン等で実施されています。
 弊社プレジデントワンは、経営者を教育する『経営者教育』のカリキュラムを設けてします。ご興味のある方は、ご連絡下さい。


加藤 博司