ロータリーエンジンという独自路線で逆境を
はね返した名経営者 松田恒次

 コロナウィルス感染対策で外出規制を厳しくすると感染者数が減少し、減少したから規制を緩めるとまた感染者が増加するというイタチごっこで、コロナウィルス感染の第3波を迎えようとしている今日、企業経営者の頭を悩ませる事態になっています。今回は、原爆被爆という困難に遭いながら、マツダ、広島東洋カープを育てた経営者 松田恒次を題材とします。
 松田恒次は、1895(明治28)年、大阪府大阪市天満橋筋で、鉄工所を営んでいた父 重次郎、母 千代の長男として生まれました。1911(明治44)年に大阪市立工業学校に入学しましたが、勉学にはほとんど励まず、1915(大正4)年、大阪市立工業高校を卒業し、同年、旧陸軍宇治火薬製造所に設計係として入社しました。しかし1年ももたずに退社しています。1917(大正6)年、恒次が22歳の時に遊びすぎがたたったのか、結核症関節炎に罹患し、左足を切断するという大きな挫折に直面しています。
 恒次は、1927(昭和2)年、父 重次郎が経営する広島の東洋工業(1984年からマツダに変更)に入社し、重次郎の元で、オートバイやオート三輪の製造・販売のノウハウを学びます。東洋工業は躍進していきました。しかし、1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が投下され、東洋工業の社屋は難を逃れましたが、広島の街自体が壊滅状態になった中、恒次は、工場の地下室を根城にして、いち早く、タイヤ等の部品を調達し、オート三輪を生産させ、陣頭指揮をとりました。戦後に吹き荒れた労働争議にも対応し、会社にも業界にも尽くしました。そんな中、会社の役員から「社長世襲制度は、封建的でけしからん。」という声があがり、会社にいるのが嫌になった恒次は、1947(昭和22)年、当時専務取締役だったにもかかわらず、突然、東洋工業を退社しています。
 退社した恒次は、1947(昭和22)年、松田精密機械製作所を立ち上げ、ボールペンの部品作りから始め、毛糸編み機を開発し、成功しています。その頃、恒次は、のちに、イタリアの著名な工業デザイナー・ジウジアーロに車のデザインを依頼し、『マツダルーチェ』が誕生するきっかけをつくったマリーザ・バッサーノ、バレリーナの森下洋子などの人脈を築いています。
 一方、恒次を追い出した東洋工業は、オート三輪市場の競争が激化し、経営不振となり、重次郎が、恒次を東洋工業に呼び戻しています。そして1951(昭和26)年、重次郎が会長に退き、恒次は、56歳で社長に就任しました。
 社長に就任してから恒次は、三輪トラック中心だった東洋工業を四輪自動車メーカーに育て上げ、R360クーペ、キャロル、ファミリア、ルーチェを投入して、シェアを伸ばし、1960年代には、トヨタ、日産に次ぐ国内第3位の自動車メーカーにまでなりました。
 東洋工業の躍進と同じくして、恒次は、1962(昭和37)年、広島カープの球団社長に就任し、1968(昭和43)年には、広島東洋カープの初代球団オーナーになっています。その2年後に恒次は、1970(昭和45)年、74歳で死去しています。
 恒次の功績は、ロータリーエンジンを開発・量産化し、ロータリーエンジン車を実用化したことです。ロータリーエンジンはその後、マツダ車に引き継がれ、“be a drive”、かっこいい車の象徴になりました。
 恒次は、先進性を持ち、車づくりにもいち早く、コンピューターを導入しています。因みに、恒次は、工場技術者に、「野球を科学してみろ」と指示し、現在のMLBの守備シフト、打球の飛ぶ方向を予測して守らせる「王シフト」を完成させています。
 恒次は、若い時は、放蕩息子で、箸にも棒にも掛からぬ存在でしたが、東洋工業に入社してからは、社業に尽くし、現在のマツダの中興の祖という存在となりました。
 恒次は、長男の耕平を後継者にしましたが、耕平には恒次のような人心掌握術がなく、先代からの実力者が残っていた為、1977(昭和52)年、代表取締役から退き、代表権のない会長となります。それ以後、創業家の松田家からは、マツダの経営者は出ていません。
 恒次は、耕平に技術的な勉強はさせていましたが、経営者として、社内の不平分子との調和をまとめるということを引き継げず、事業承継においては、成功をおさめることができませんでした。事業承継がうまくいかなかった事例は、松田家に拘わらず、少なくあります。このような事にならない為に、事業承継計画を立て備えていくのも大切です。
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加藤 博司