春宵十話に想う

 3月に入り、気温の低い日は続きますが、空が柔らかくなってきました。いつものようにまた春が訪れ、桜が私たちを癒すために、一生懸命準備をしてくれていると思うと、新型コロナ禍にあって待ち遠しい思いがするものです。
 ワクチンの普及には時間がかかりそうですが、新型コロナ終息に向けた動きが始まっているのがわかります。昨年の1月より、主要なニュース番組を全て録画しているのですが、2月まではニュースの9割ほどが新型コロナ禍によって占められていました。新型コロナ禍の陰に隠れて大事なニュースがこの1年、すっかり埋もれて私たちの耳に届かなかったのです。しかし、3月に入り新型コロナ禍の比率が6割ほどに落ちてきました。このことから新型コロナ後の社会に向けて歩み始めたことがわかります。

 さて、一昨日、昨日と海外の企業にオンラインで人づくりとモノづくりについて講義を行いました。日本と違い、今後数十年は成長を続ける国の人たちですから、彼らの態度は真剣です。発展途上国ですから日本の高度成長期のように多忙を極める毎日を過ごしています。そうした中で、役員、幹部が数十人出席して、講師に質問をする熱量は、いまや日本では見られない光景です。「平日は仕事に精いっぱい頑張りたい。休日の土曜日であれば出席者は講義に集中できます。何とか土曜日に開催してもらえませんか」との要望がでてきました。希望をもって仕事にあたることができるというのは素晴らしいことです。
 私は人づくりを担当し、昨日はモノづくり担当の先生がお話をしました。某著名メーカーで長年、カイゼンに取り組んでこられたプロフェッショナルです。昨日の講義では、聞き逃してはいけないと出席者は真剣なまなざしで臨んでいました。ところがその方は、日本のある私立大学で同様の講義をなさっておられますが、こんなことを言っておられました。「講義の終わりに学生の評価が出るんです。その評価項目のほとんどで平均以下なんです」と嘆いておられました。「私の教え方がいけないのですかね」とこぼしておられました。
 私はそのようには思いません。ある方がこんなことを言っておられます。『私が本当に心配でならないのはいまの教育のことである。事態がもっと切迫してくれば、みんなが気がついてくれるかもしれないが、それでは遅すぎるのだ。…いまの青年は自分に都合の悪いことはいわないのかもしれない。…いまの学生で目につくことは、非常におごりたかぶっているということである。もう少し頭が低くならなければ人のいうことはわかるまいと思う。謙虚でなければ自分より高い水準のものは決してわからない。』
 実はこれは、天才数学者岡潔さんの言葉です。春宵十話の一節です。1963年1月のことです。岡さんは世相を斬るには門外漢でありながら、著述の動機として、はしがきに「近ごろのこのくにのありさまがひどく心配になった、とうてい話しかけずにはいられなくなったからである」と述べています。「事態がもっと切迫してくれば、みんなが気がついてくれるかもしれないが、それでは遅すぎるのだ。」という岡さんの言葉を借りれば、いまの日本は「まだ気づいていないのでは」と思えることばかりです。
 資源も個人の才覚も世界の中で飛びぬけたものを持ち合わせていない日本人が謙虚さを失えば、残念ながら、一昨日、昨日と私たちが教えた人々の国の背中に回らなければならない日がやってくるのではないかと、暗い気持ちになるのです。
 日本の置かれた状況を客観的に気づく経営者の方々が増えることをただ祈るばかりです。


代表取締役 松久 久也