ロシアという国
先週、某トヨタ系大手の現地法人の社長であった友人から電話を受けました。「あれほど努力して工場を立ち上げたのに、すべて無になった。誠に口惜しい」との感想でした。ロシアの進出に関する役員会で、彼は一人ロシア進出を反対したのですが、皮肉にも社長として赴任することになりました。赴任後、幾多の困難に直面しそのあまりのストレスに、私にロシアにぜひ来てほしいと要請を受けました。本音を伝えられる日本人が誰もいなかったのでしょう。要請を受けて、足を運びました。彼は初代社長として並々ならぬ努力を経て、現在では社員500人を抱えるまでになっています。トヨタ本体の現地法人と合わせて2000人の現地雇用を創り上げました。ところがウクライナ侵攻により、ロシア本国の現地従業員は全員失業したと聞きました。彼が手塩にかけて育てた社員が全員路頭に迷うことになったのです。
そうした縁もあって私どもも日本でロシア人を2人採用し、サンクトペテルブルグにブランチをもったことがあります。少しはロシアについて知っているかもしれません。2人は他のロシア人がそうであるように日本が大好きで、一人は母国に帰り、日本の優れた製品を発掘してロシアの人々に提供する立派な事業家に育っています。その女性社長が、ウクライナの件について言及しました。「アメリカが悪い」というコメントでした。彼女は聡明で、日本大使館主催の日本語スピーチコンテストで1位になり、名古屋大学にも留学した経験があります。その良識派の彼女が開口一番、「アメリカが悪い」というのです。私たちや世界の感覚と全く違います。ロシア人はウクライナを通したアメリカを許せないのです。欧米諸国、日本はジェノサイドと激しくロシアを非難するのですが、日ごろいかに親しい間柄のロシア人といえども、ウクライナ問題を掘り下げようとするとまったくかみ合わなくなるのです。そこには屈折した世界観がロシア人にあるのです。
「ロシア人の根底には、ドストエフスキーの時代も、神を追放したソ連崩壊後も、このふたつの意識が脈々と流れているように思える。軍事、宇宙開発、スポーツにあれほどの執念を燃やせる原動力は、根深い文化的劣等感と高貴なるロシアという幻想がせめぎ合って生じる熱ではなかろうか」(出典 2022年4月2日 産経新聞 「随想録を読みながら」)
サンクトペテルブルグは、モスクワに次ぐ第二の都市で、ロシア革命が起こるまでは首都でした。そこを訪れ、エカテリーナ宮殿やエルミタージュ美術館、マリインスキー劇場などに足を運ぶと、気品と優雅さに溢れています。しかし、市内のどこを歩いても影が付き従ってくるようで、もの哀しい雰囲気が漂っています。
司馬遼太郎氏は、『坂の上の雲』『菜の花の沖』を執筆するにあたり、3年間を費やしロシアとは何かについて掘り下げたといいます。『ロシアについて』(文春文庫)という著書で、そのあたりのことを詳しく述べています。「ロシア世界は、西方から見れば、二重にも三重にも特異な世界たらざるをえなかったことを、ロシアというものの原風景として考えておく必要があるのではないでしょうか。外敵を異様におそれるだけでなく、病的な外国への猜疑心、そして潜在的な征服欲、また火器への異常信仰」があるといいます。今回のウクライナの現実をあらわすわかりやすい表現です。
しかし、ロシアがなぜそのような特異な世界観を持つにいたったのか。私たち日本人が知らない歴史が隠されています。「それらすべてがキプチャク干国(モンゴル帝国の四干国の一つ。1243年建国)の支配と被支配の文化遺伝」と司馬氏は考えます。「キプチャク干国というのはロシア平原に居すわってモンゴル軍が立てた国です。…征服者であるキプチャク干国の王とその貴族、およびその家来どもからすれば、ロシア人の農民などを人間と思わず、労働をしたり生産したりする動物と見ていたかのようです。…キプチャク干国がロシア農民に対して行った搾りあげはすさまじいもので、ある説では十四種類もの貢税がかけられたといわれ、ロシア農民は半死半生になりました。干国のやりかたは、ロシア諸公国の首長を軍事力でおどし、かれらを隷属させ、その上でかれらを通じ、農民から税をしばりあげるというもので、これにたえられずに逃げてしまう農民もあり、悲惨なものでした。首長が、干国にすこしでも抵抗の色を見せれば、干国から軍隊が急行するのです。軍隊はその町を焼き、破壊し、ときに住民をみなごろしにし、女だけを連れ去るというやり方をしました」
司馬遼太郎氏にしてはかなり激しい表現です。そのような凄惨な歴史によってロシア人の精神はすさみ、それが文化遺伝子になったのかもしれません。また、日本との関係については、次のような興味深いことを述べています。司馬氏によれば、ロシアと日本の因縁はシベリアにあるといいます。シベリアは「欧露(ウラル山脈西のロシア)からみた印象は暗く、寒く、しかもはてしない」ものでしたが、カムチャツカ半島を発見して以来、陰鬱なシベリアにも、青い海の東方の出口があることを知った。しかし、シベリアの慢性的な食糧不足は深刻で、食料補給をいかにするかが大問題でした。この問題を解決するために、黒貂(くろてん)の毛皮を売って中国から食料を獲得することを模索したようですが、中国には需要がありませんでした。また中国から食料を買い付けても陸路はるばるシベリアに送ることも問題の解決になりませんでした。そこで「海洋の文明圏、日本が期待というひかりとして浮かび上がってきた。広大なシベリアを保有するためにぜひ日本」の力を必要するというものでした。「ロシアは日本と国交をひらくためにその糸口として、しばしば漂流民を日本に送り届けました。これに対し、江戸期日本は偏執的なほどに頑固でした。鎖国が国是であるということで、そのつどつめたくあしらい、ロシア側に不快の感情を味わせつづけた。ロシアは食糧を得るために日本を研究し、漂流民を優遇し、そのすえに日本政府と正規の国交を持つことを願った。一方、日本はシベリア開発の国家意思が、江戸期日本にとって一種の対露恐怖をうけつづけた本体であった。日本はロシアの熱望にろくに応えたことがない」といいます。
これまでロシアが嫌いな日本人は80%、逆に親日ロシア人は80%で、ロシア人の片想いと言われてきました。司馬氏の記述を見れば、そんなお互いの対日、対ロ感情がその歴史を見事に反映していることが理解できます。そうした行き違いの感情をもたらした本質的な原因が、凄惨なキプチャク干国の所業にあるというのは誠に哀しい話です。孤独な民族になってしまったのも無理からぬと思えてきます。ウクライナの凄惨な現実を見る時、そうした深層があるのかもしれません。国際関係というのはつくづく難しいものだと思うのです。プーチン大統領とバイデン大統領の犬猿の仲、また、「ロシアの敗北」を前に引くに引けないプーチン大統領がこのロシアの「病的なアメリカへの猜疑心」を暴発させ、核に走る可能性が否定できないことを考えあわせますとぞっとします。
代表取締役 松久 久也