報徳思想、報徳仕法で指導し成果をおさめて、
渋沢栄一等の名経営者にリスペクトされた二宮尊徳

 すべての人々にとってより良い、より持続可能な未来を築くための青写真、持続可能な開発目標(SDGs)が注目され、毎日のようにマスコミを賑やかせていますが、今から150年位前に“SDGs” の考えに近いことを取り組んでいた二宮尊徳を今回の題材とします。

 二宮尊徳は、1787(天明7)年、相模国足柄上郡(現在の神奈川県小田原市)に、富農の父 利右衛門と母 よしの長男として生まれています。尊徳が5歳の時に暴風雨で家が流失し、借財を抱えてしまいます。家計は貧し、父が病気となってしまったので、12歳で一家の生計をたてるようになります。14歳で父を亡くし、16歳で母も亡くして、一家離散しています。その後伯父 萬兵衛方に寄食しますが、尊徳が夜に読書をするのを「灯油の無駄遣い」として嫌い、しばしば口汚く罵られました。
 そこで、尊徳は、友人から五勺ばかりのわずかの菜種を借り、荒れ地になったままの自分の土地や隣接する小川の堤に種をまきました。すると翌年の初夏には八升ほどの菜種を収穫することができ、それを油屋に持って行って燈明油に替え、その燈明油で夜間の読書を行っています。
 1804(文化元)年に萬兵衛の家を離れ、親族や親戚に寄宿します。20歳で生家の再興に着手し、家を修復・質入田地の一部を買い戻し、生家の再興に成功し、地主・農園経営を行いながら小田原に武家奉公人として働きました。
 二宮尊徳は、創意工夫が認められるようになり、1811(文化8)年、小田原藩家老 服部家の若党となって子息の修学を助けるとともに、奉公人たちの生活を立て直し、経済改革を行っています。1822(文政5)年、36歳で小田原藩に登用され、小田原藩主大久保家の分家 宇津家の管理下の下野国芳賀郡(現在の栃木県真岡市)桜町領が荒廃しているということで、再興救済を藩主大久保忠真より命じられ、再建に着手しています。
 二宮尊徳は、再建にあたり、徹底的な現地調査から始めました。また、自らが現地の指揮を執り、必ず具体的な数値目標を掲げて、周囲にそれを公表して周知徹底させるなかでスタートし、確実に実践していきます。10年後の1831(天保2)年には桜町領で1900俵の貢納が可能となり、荒廃していた桜町領を再建させています。その後、噂を聞きつけた周辺の領地から再建を託され、次々に成功させていきます。1842(天保13)年、当時の老中 水野忠邦から御普請役格で幕府に登用され、日光神領、下館、相馬藩等の領地再建指導を行い、近代日本の農村政策に大きな影響を与えています。
 1856(安政3)年、70歳で後を長男 尊親、門人の富田高慶に託して、死去しています。

 二宮尊徳は、“経済の伴わない道徳は戯言であり、道徳を伴わない経済は罪悪である”とし、いくら道徳を説いても、金がなく実行できなければ何も生まれないし、何の価値もないので、道徳の実践を支える経済の実践があってこそ、社会が発展していくことを伝えていきました。
 二宮尊徳が独学で学んだ神道・仏教・儒教などと、実践のなかから編み出した改革手法である報徳思想・報徳仕法の原理には、次のようなものがあります。

『至誠』
まごころを尽くして人生と向き合い、為すべきことと向き合うこと。
『勤労』
物事をよくよく観察し、認識して、それを基に智恵を磨きつつ働くこと。
『分度』
自分の置かれた状況や立場をわきまえ、それにふさわしい生活を送ること。
『推譲』
分度を守り、勤勉に働き、その結果として、家族や子孫の為に蓄えたり(自譲)、他人や社会の為に譲る(他譲)ことによって、人間らしい幸福な社会が誕生すること。
『積小為大』
小さな努力、小さな蓄積がやがては大きな収穫や発展に結びつくこと。

 明治以後の日本を代表する偉大な経営者たる実業家は、資本主義の発展過程において、報徳の精神を自らの信念とし、実践に活かしています。その中に渋沢栄一、松下幸之助、トヨタの創業者 豊田佐吉、みずほ銀行の創業者 安田善次郎、土光敏夫などがおり、海外では、英国の元首相 マーガレット・サッチャーも二宮尊徳をリスペクトした中の一人です。
 因みに、兵庫県にあるスポーツなどで有名な報徳学園は、報徳思想の信仰者であった大江市松により、二宮尊徳の教えを世に広め、報徳の考え方を学ぶべく、1911(明治44)年に設立された学園です。
 江戸時代の後期という時代にすでに現代経営者が編み出した手法を実践し、世界が取り組もうとしているSDGs(持続可能な開発目標)を実践していた二宮尊徳は、現代でも評価されるべきではないでしょうか。

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加藤 博司