助け合わない社会

 菅首相は、人間としては誠実な方だったのではないかと思います。しかし、いかにも政治家としての言葉を持ち合わせておられませんでした。いつしか、その言葉をめぐって、首相と国民の間に決定的な溝が生まれました。政治は本当に難しいものだと思います。

 最近の世の中を見ていますと、ものごとがすべて政治化しているのではないかと感じます。“政治はすべてをやってくれるはずだ。誰かが悪い。”自分は『完全な自分』であるという無意識の前提があります。少しでも気に食わないことがあると、「おかしいではないか」と叫びたてる。ケネディ大統領は大統領就任演説で次のように述べました。「我が同胞アメリカ国民よ、国が諸君のために何が出来るかを問うのではなく、諸君が国のために何が出来るかを問うてほしい」。政治に期待するだけでなく、そういう側面もあります。

 昔、テレビの前で自分の意見を言うことをためらうのが日本人でした。なぜならば、人々にものを言えるほど自分には見識がないと感じていたからです。いまから思えば、自分を抑圧しすぎていたように見えます。しかし、いまでは、老若男女を問わず、すべての人が『ご意見番』になりました。対話は誠に重要ですが、感情発露の場ではありません。何が正しいのだろうかと吟味しあうことです。ところが今は、キャッチャーをめがけてボールを投げるのではなく、所かまわずボールを思い切り投げあっているという感じです。

 日本人がいつからそのように変容したのかといえば、私はインターネットが登場してからだと考えています。インターネットはコミュニケーションに革命をもたらす一方、全体を俯瞰した意見交換が少なくなり、ぶつかることが多くなるだろうということは予想されていました。いまではSNSで細分化され、一方的な『つぶやき』によってあちこちで「事件」が起こるようになりました。『つぶやき』で人々のみならず、世界の動きが変わるなどという現象は、誠におどろくべきことです。『つぶやき』とはひとつの感想だからです。

 菅総理は政治家としての言葉が不十分で首相の座を降りざるを得なくなりましたが、パンデミックは基本的には政治問題ではありません。人類にとって100年に一度の困難な出来事です。誰が首相をやっても、政治家がパンデミックを打ち消すことはできません。政治家のリーダーシップが必要であることは論を俟ちませんが、どんなに優れた人がやっても試行錯誤が伴います。あらかじめ解答があり、「解答」に辿り着かないのは政治の責任だというのは行き過ぎではないかと思うのです。私たちはこの未曽有の事態に政治家、科学者、企業、国民が助け合って克服しなければならないのだと思います。助け合うことは人に迷惑をかけないことでもあります。助け合うことで知恵もうまれ、政府が宣言を出さなくても行動変容は起こります。しかし、誰かの責任という発想ならば、逆に無謀な行動に走る人が多くなり、結局、パンデミックの『思うつぼ』になっているのではないかと思います。

代表取締役 松久 久也