「三菱」を個人企業から財閥を確立させた名経営者 岩崎弥之助
事業承継の難しさ、時代の変化に対応できずで、企業寿命が短くなっている昨今、第二次世界大戦での敗戦後、財閥解体という苦境にあいながら、その後、また復活した三菱財閥、今回は、その三菱財閥のルーツ、戦前の三菱財閥を確立させた岩崎弥之助を題材とします。
岩崎弥之助は、江戸時代の1851年(寛永4年)土佐藩(現在の高知県)井ノ口に、地下浪人の父 岩崎弥次郎と母 美和の次男として生まれています。兄は、16歳離れた、三菱創業者の岩崎弥太郎(1835年~1885年)です。
弥太郎は、1858年、土佐藩の家老 吉田東洋に見出されて出世の道が開かれたが、1862年、吉田東洋が暗殺された。失意の後、吉田東洋の甥 後藤象二郎に算盤、算術の腕を買われ、土佐藩の貿易商社 開成館長崎商会の主任に命じられました。弥太郎は、外国人相手の貿易で頭角を現しました。その後、1871(明治4年)廃藩置県で、土佐藩が解体され、弥太郎自身の政官界の進出を断念後、1873年(明治6年)、「三菱商会」を設立しました。
同時期に明治新政府の主導で、当時の豪商、三井、鴻池、小野組等が出資して、巨大海運会社 日本郵便蒸気船会社が設立され、三菱商会としのぎを削りました。1874年(明治7年)、台湾出兵の際、日本郵便蒸気船会社が消極的でありましたが、三菱商会は、軍需輸送を積極的に引受け、明治新政府の大久保利通から全幅の信頼を得て、政商の道を辿ることになり、日本近海の海運業を独占し、莫大な利益を上げていきました。好事魔多し、大久保利通が、1878年(明治11年)暗殺され、贔屓にされていたもう1人の政治家、大隈重信が、明治十四年政変で失脚すると、三菱商会へのパッシングが強まりました。明治新政府は、反三菱商会の実業家を糾合し、1882年(明治15年)共同運輸会社を設立して、三菱商会と競争させて、両社が熾烈な値下げ競争が開始され、両社の共倒れが危惧されるに至りました。この激闘の最中、1885年、弥太郎は胃がんで亡くなってしまいました。
弥之助はというと、1869年(明治2年)、弥太郎を頼って大坂に出た後、1872年(明治5年)アメリカに留学、1年の後、弥太郎から帰国を命じられ、三菱商会の副社長として迎え入れられ、1874年(明治7年)、後藤象二郎の娘、早苗と結婚しました。その後、生前の弥太郎を支え続けています。
弥太郎の死後、35歳で三菱商会の社長になった弥之助は、共同運輸会社との熾烈な競争を収拾すべく奔走し、1885年(明治18年)郵船会社三菱会社と共同運輸会社を合併させ、日本郵船会社を設立させました。その際、郵船会社三菱会社は、海運関係の一切の資産を移譲し、従業員も転籍させて、海運業から手を引くという大胆な経営判断をしています。
弥之助は、鉱山業(高島炭坑)、造船業(長崎造船所)、銀行業(第百十九国立銀行)、保険業(東京海上火災)の海運業以外の事業を発展させて三菱の再構築を図りました。また、1893年(明治26年)の商法の施行を機に、岩崎家は財産関係を整理し、岩崎家の財産から事業を切り離し、弥之助と岩崎久弥(弥太郎の長男)の共同出資で、戦前の三菱財閥の基となる三菱合資会社を設立しています。その間の大仕事としては、1889年(明治22年)東京の丸の内に陸軍用地の原野13.5万坪を買い取り、大ビルを多数建設して三菱財閥の本拠地としています。弥太郎の生前に仲違いしていた、渋沢栄一、井上馨との関係改善を行い、三菱財閥の発展に大きく貢献しています。
岩崎弥之助は、まだ、働き盛りであるにも関わらず、岩崎弥太郎の遺言を守り、1893年(明治26年)、42歳で社長を岩崎久弥に譲っています。弥之助の忠実で、謙虚な心が、内輪揉めがなく、円滑な事業承継、三代目久弥、四代目小弥太(弥之助の長男)にうまくバトンタッチを行い、1945年の三菱財閥まで続いていきました。
弥太郎が経営者であった時から、大卒等の人材育成を行っていたお陰で、財閥解体後の戦後も、三菱財閥は、戦前以上に発展していきました。
三菱財閥の岩崎家のようにスムーズに行われる事業承継が難しくなっているようです。
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加藤 博司