本質を捉え、決断・実行して成功を
おさめた名監督 落合博満
中日ドラゴンズが本来であれば野球でマスコミに取り上げられるべきなのに、球団が、応援歌の「お前」というフレーズを応援団に禁止の要請をしたということでマスコミを賑わせています。中日ドラゴンズは2011年まで黄金時代でこのようなみっともない問題で取り上げられることはありませんでした。その時の監督 落合博満を今回の題材とします。
落合博満は、1953(昭和28)年秋田県南秋田郡若美町(現在の男鹿市)に7人兄弟の末っ子として生まれ、小学生から野球を始め、上達していきましたが、体育会系の体罰が嫌いで、甲子園常連校ではない秋田工業高校に入学しました。
体罰がないと考えて秋田工業高校野球部に入部しましたが、ここでも体罰が横行していて、落合は7回も入退部を繰り返しました。
東洋大学に入学しましたが、半年で退学し、プロボウラーを目指してします。高校時代の恩師の勧めで、東芝府中の野球部に入部し、東芝府中を都市対抗出場に導くなど頭角を現し、1978(昭和53)年ロッテオリオンズにドラフト3位で入団しました。入団3年目の1981(昭和56)年にレギュラーを奪取すると首位打者、1982、1985、1986年に三冠王と打撃部門をほぼ総なめにしました。1987(昭和62)年、中日ドラゴンズに入団し、1988(昭和63)年の優勝に貢献し、1994(平成6)年FAで読売ジャイアンツに入団、プロ野球史上に語り継がれる10.8決戦で読売ジャイアンツの勝利に貢献し、優勝請負人と呼ばれました。その後、1996(平成8)年日本ハムファイターズへ入団、1998(平成10)年、現役引退しました。
落合は、2004(平成16)年から中日ドラゴンズを率いて、2004年、2006年セ・リーグ優勝、2007(平成19)年、53年ぶり日本一、2010(平成22)年、2011(平成23)年と、然して強豪ではない中日ドラゴンズの黄金時代をつくりました。
落合は、監督初年度、2004(平成16)年に選手の補強を行わず、選手の能力を10%上昇させて優勝するというスローガンを掲げ、セ・リーグ優勝を達成しています。
落合は、野球は1点でも多く点をとったチームが勝つ。という本質を捉え、いかに相手チームより1点でも沢山とるかいうことを徹底しておこなっています。
例えば、1回にノーアウト満塁で、四番打者が併殺打を打った時、普通の監督であれば悔しがるところですが、落合は、1点取れたことを認識し、その1点で勝てる道筋が増えたと考えるようです。
落合は、練習方法でも、内野ノックで、捕るだけではなく、送球もさせたり、捕手のワンバウンド捕球練習では、ワンバウンド投球に通常の投球を交えるなど、実践練習を行わせています。
打者がスランプに陥った時には、無闇に打ち込ませるのではなく、膝を柔らかく使わせる為に、内野のゴロ捕球をさせて、調子を取り戻させたりしています。また、落合はノックで、緩いゴロを、股を割る姿勢で捕球し、そこから送球の体勢に入る動きを身につけさせています。
バッティングについては、どんな球種であれ、打つべきボールはルールブックにあるストライクゾーンの高さでホームベースを通る。大切なのは、それにどうやってタイミングを合わせるか。また、ストライクに見えてしまう目の錯覚を取り除くか。その為には、投球の軌道から、どれがストライクでどれがボールになるのか、どのボールが打ちやすいのかを整理させました。
落合は、正しい練習の仕方、練習の持つ意味をしっかり理解することをコーチ、選手に徹底させています。
落合の指導方針として、“如何に情報に踊らされず、必要なことだけを身に着けていくか”があり、周囲や世間の評判に踊らされることなく、自分たちの置かれた現実と向き合いながら最善の結果を残すための方策を練っていくことを基本的な考え方としてチームづくりを決断・実行して成功に導いています。
落合のような考え方は、情報過多の現代、様々な企業環境が変化する時代に生きる経営者にも参考できるのではないでしょうか。
加藤 博司