仕事に意味を見出す

 スポーツを除けば、元気のない社会である。そんな国になってしまった。それは、日本の平均的な景色である。しかし、いつの時代にも、前に進む人がいる。そんなイメージに触れてみたいと思う。人口減少、超高齢社会という話題ばかりである。「もう終わった」という感覚である。それは、年齢を重ねた世代からみた風景である。1億人を下回ろうが、そこには新しい世代が誕生し、“1億人”も人がいるのである。これから日本を担っていく若い世代にはどのような可能性があるのだろうか。ネガティブな話題は所与として、そこには触れずにいろいろな可能性を考えてみたい。
 なぜ我々はこの世に生を受けたのか。お金を稼ぐためではないようだ。おいしいものを食べるためでもない。旅行するためでも、スポーツをするためでもない。日本が一番であることを自慢するためでもない。(そうした意味では、日本のメディアは大きな過ちを犯している。)それらを通じて、そこに人生を感じることができるかどうかである。お金を稼いで何を得たのか。何を失ったのか。スポーツに勝利をして、何が残ったのか。意味が残らなければ生きたことにならない。
 企業経営者について考えてみよう。企業経営は利潤を上げなければならない。利潤を上げられない経営者は失格である。しかし、利潤を上げればそれでよいというものでもない。それでは経営者は、利潤を上げる機械になり下がる。企業が利潤を上げる活動には際限がないので、ただひたすらに寿命が尽きるまで利潤を上げ続ける。経営者は、利潤を上げるだけのために生まれてきたことになる。しかし、それはきっと違う。
 利潤を上げるためには、経営者は大きな目標を掲げなければならない。経営ビジョンである。思い付きではいけない。経営ビジョンを掲げるということは社会の未来を洞察しなければならない。近未来の知識がなければビジョンを描くことはできない。今後、どのように経営をしたらよいか分からないという経営者は、この知識がない。勉強していないのだ。経営ビジョンを描くために、前提となる知識を学ぶだけでも、ぐんと視野が広がる。例えば、AI時代には人がいらなくなる。将来とても心配だという人が多い。しかし、そういう人に限って、勉強していない。不安は無知から来ることが多い。無知が人を不安にさせる。学べば状況が変わってくる。学ぶことで、いろいろなアイデアが浮かんでくる。学ばずに、利潤追求だけを追う日々であれば人は疲弊するばかりである。しかし、学ぶことで、利潤を上げるためのアイデアが生まれ、これを試してみたくなる。利潤追求という狭い視野が広がり、チャレンジすることが楽しくなる。わくわくしてくることになる。次に、このアイデアを実現していくためには、社員が一丸とならなければならないことにも気づく。つまり、新しいビジョンを社員と共有しなければならない。しかし、社員はバラバラであることが多い。なぜ社員は、1日の大半を会社で過ごしていながら、心がバラバラなのか。この理由を探るために、人間とは何か、どのような存在なのかを知りたくなる。組織をまとめるために必要な知識を探し求める。歴史、哲学、心理学、行動経済学などを学ぶ人も出てくる。学んでいくうちに、人間の行動様式、論理が分かってくるようになる。単純な利潤追求作業から、ビジョンを生み出し、人間を理解することで仕事の仕方、見え方が一変する。
 こう考えると、実は、利潤を追求するために学ばなければならないのではなく、学ぶために人類共通のテーマである利潤追求という手段が用意されているのである。つまり、因果関係が逆なのだ。学ぶために、企業というものが存在し、利潤という手段で我々の頭脳は活性化されるのだ。もし利潤追求という万人に共通する物差しがなければ、努力しない怠惰な人びとが増えるに違いない。かつてのソ連のように努力しても、しなくてもよい社会になれば、みんな努力しない社会になるだろう。経営者にとっては、利潤追求という手段がなければ成長することができないのである。そのような意味で、私たちは働くとは、生きることの視野を広げ、成長するためにあることに気づく。商品やサービスを通じて、努力する場を与えられ、人生を意義あるものにしているのだ。日本に活力を取り戻すためには、まず、食うために仕事をせざるを得ないという考え方をやめ、仕事を通じて、どんな人生をつくるのかが最も大切である。今の日本人は、仕事の先に、意義ある人生があることをすっかり忘れている。


代表取締役 松久 久也