集団主義と個人主義
爽やかな日は年々少なくなってきました。この10月末から11月が1年のうちで最も心穏やかな季節ではないでしょうか。先日も、街を散歩していますと、小学校の校舎を囲むようにかぐわしい香りとともに花が咲き乱れていました。朝顔と金木犀が満開でした。夏の風物詩の朝顔と晩秋の金木犀が同じ時期に咲いているのです。もはや、朝顔の季節感は失われたようです。まことに残念なことです。
私は、昨年からASEANのある国の大手食品メーカーの経営陣及び管理職20名ほどに、研修を行っています。コロナ禍によって現地に足を運ぶことができなくなったことで、オンラインで教育を行うことになりました。リアルとオンラインでの違いはほとんどありません。これまでオンラインで困ったことは何もありません。コロナ禍によって、私たちは「大きな発見」をしたことになります。これまで膨大な手間暇かけてやってきたコミュニケーションが、多大な時間とコストをかけずして可能になったことは誠に革命的です。時は世界的に地球温暖化の大きな課題を抱えていますので、このコミュニケーション革命は、人類にとっても大きな意味があります。コロナ後も、リアルとオンラインのハイブリッドで企業活動が行われていくのは間違いないでしょう。
さて、後発国の経営者にとって大きな課題は、社員の働き方です。後発国の社員は利己的で至るところで対立を起こします。社員がバラバラに動けば、正常な企業活動はできなくなります。ましてや生産性の向上につながりません。私は日本の発展の基礎が集団主義にあることを教えています。一方、人間は創造力もなければうまく仕事をこなすことはできません。後発国は、欧米流の創造性を伸ばす個人主義と日本流の集団主義の選択に迫られます。多くは欧米流の選択をします。しかし、それに疑問を感じ、日本流の教育に関心をもつ経営者も少なくありません。そこで私は後発国にとっては、まず国の基礎をつくるためには集団主義が個人主義より優先される必要があると伝えています。順序として集団の中でどのように生きていくのかを学び、それが身についた後で個人の創造性を伸ばすことだと伝えています。この基本的な性質を身につけるためには大人になってからでは遅いため、幼児教育から行わなければなりません。私は中部地区最大の保育園と協力して、日本の幼児教育をASEAN地域にも展開しています。集団主義とは公を優先させて個人に規則を押し付けることではありません。集団とは大きく言えば、人間社会といってもよいでしょう。集団を秩序だったものにするためには、人としてあるべき姿をみんなが考えるということでもあります。判断が人として正しいことなのか、部門として正しいことなのか、会社として正しいことなのかを常に考えることが集団主義といえます。人にはそれぞれ異なった見方があり、自己主張を重ねれば必ず対立します。一方、自分が正しいと思うことを人に伝えずにただ、上司のいうことに従うだけならば、奴隷のようになってしまいます。
聖徳太子の憲法十七条の第十条に以下のような言葉があります。
「心の中で恨みに思うな。目に角を立てて怒るな。他人が自分にさからったからとて激怒せぬようにせよ。人にはみなそれぞれ思うところがあり、その心は自分のことを正しいと考える執着がある。他人が正しいと考えることを自分はまちがっていると考え、自分が正しいと考えることを他人はまちがっていると考える。しかし自分がかならずしも聖人なのではなく、また他人がかならずしも愚者なのでもない。両方ともに凡夫にすぎないのである。正しいとか、まちがっているとかという道理を、どうして定められようか。おたがいに賢者であったり愚者であったりすることは、ちょうどみみがねのどこが始めでどこが終りだか、端のないようなものである。それゆえに、他人が自分に対して怒ることがあっても、むしろ自分に過失がなかったかどうかを反省し、また自分の考えが道理にあっていると思っても、多くの人々の意見を尊重して同じように行動することである」
日本の集団主義の原点は聖徳太子の十七条憲法に由来します。つまり、和の精神とはチームのために遠慮して自分の考えを述べないということではありません。お互いの違いを認め合い、感情的になるのではなく、理性的に対話を重ねれば必ずものごとはうまく収まるというのが日本の集団主義です。これをASEANの人々に伝えていますと、彼らは深くうなずき、日本型の社員教育のファンになっていきます。
しかし、ASEANの人々にこのような日本の素晴らしい思考法を伝えていながら、我が国の足元が、和の精神から大きく離れて、人々がいがみ合う国になってしまいました。誠に残念です。
代表取締役 松久 久也