アフガニスタンに命を捧げた中村哲医師の著書『天、共に在り』を読む

 先日、ARBのボーカルとして活躍していた俳優の石橋凌のライブを観てきました。石橋凌がライブの中で、アフガニスタンで生活用水確保の為、井戸を掘削し、灌漑用水の建設に命を捧げた中村哲医師の偉業を熱く語りました。そして鎮魂歌として自ら作詞・作曲をした「Dr.Tetsu」をライブで披露したのを観て感動しました。今回は、その中村哲医師の著書『天、共にあり』を題材とします。

 中村哲医師は、1946(昭和21)年、福岡県福岡市に生まれ、北九州市若松区で育ちました。1968(昭和43)年、九州大学医学部に入学し、1973(昭和48)年に卒業と同時に佐賀県にある国立肥前診療所に入所しました。精神神経科を選択し、精神的に悩む患者と向き合っていました。その後大牟田労災病院、八女郡広川町の脳神経外科の勤務を経て、1983(昭和58)年にJOCS(日本キリスト教海外医療協力会)パキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任し、ハンセン病の治療にあたりました。パキスタンとアフガニスタンで長く活動をしていましたが、パキスタン国内では政府の圧力で活動の継続が困難になったとして、以後はアフガニスタンに現地拠点を移しています。

 2000(平成12)年にアフガニスタンで大旱魃が発生し、農地の砂漠化は進んでいきました。飢餓に苦しむ村を捨て、都会に出ていく住民や、痩せた土地でも育つケシの花の栽培をする農民を見て心を痛めた中村哲医師は、住民が生活の基盤を確保できるよう、農業用の井戸を掘削し始めています。しかしながら、農地の開墾面積に限度があり、また後に地下水の枯渇を引き起こすことは目に見えていました。そこで用水路を建設し、川の水を溢水させることなく分散させ、貴重な水を無駄なく農業用水に転用させるための計画(緑の大地計画)を立案し、マルワリード用水路、カシコート護岸工事を完工させています。

 2016(平成28)年、現地の住民が自分の用水路を作れるように学校を準備し、住民の要望によりモスク(イスラム教の礼拝堂)、マドラサ(イスラム教の教育施設)を建設しています。

 2019(令和1)年10月、中村哲医師は、アフガニスタンの国の名誉市民権を与えられましたが、同年12月、自動車で移動中に狙撃され、非業の死を遂げています。

 中村哲医師が、井戸を掘り、用水路を建設したアフガニスタンは、アメリカ同時多発テロ(2001.9.11)の実行犯と言われるアルカイダが実効支配をしていたり、タリバン政権が支配したり、隣国のパキスタンとの紛争で政情不安であり、生活水の確保が難しくて国民の貧困が激しい国でありました。しかし、中村哲医師は、様々な政治的な横やり、天候不順などの労苦に耐えながら、人を信じ、育てながら、アフガニスタンの国民の生活水準を向上させる為に命を捧げています。

 中村哲医師の言葉で、“現在三十年の体験を通して言えることは、私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人のまごころは信頼に足るということです。”とし、アフガニスタンの実体験において、1992(平成4)年、ダラエヌール診療所が襲撃されたとき、「死んでも撃ち返すな」と報復の応戦を引き留めたことで信頼の絆を得、後々まで事業を守ることができていると語っています。

 中村哲医師の言葉で、“信頼は一朝にして築かれるものではない。利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる。それは武力以上に強固な安全を提供してくれ、人々を動かすことができる。私たちにとって、平和とは、理念ではなく、現実の力なのだ。私たちはいとも安易に戦争と平和を語りすぎる。武力行使によって守られるものとは何か。そして本当に守るべきものは何か、静かに思いをいたすべきかと思われる。”と残しています。

 経営者の方々は、取引先、競争会社との間、労使関係等で係争事が生ずることがあると思います。大変難しいことではありますが、中村哲医師の残した言葉“利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる。”を頭の片隅に入れて対応策を図ると良い結果をもたらすことがあるのではないでしょうか。

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加藤 博司