中部経済新聞に掲載されました
経営者のためのコミュニケーション心理学 第17回
リーダーの決断において、背水の陣は果たして有効なのでしょうか。
ペンシルベニア大学のアダム・グラント教授は、組織心理学の観点から起業家について興味深い研究をしています。それは、「今の会社をやめて本業として起業した場合。今の会社の仕事を本業として続けたまま、副業として起業した場合。倒産リスクは33%も後者が低い」というものです。会社を辞めてすべてを投げ打って起業するよりも、本業は残しておいて、あくまでも副業でスタートしたほうが良いことを示しています。
歴史上の偉人や発明家、優れた起業家といった自らのビジョンを体現した人たちは、勇敢にリスクを取る人たちで、私たちのような一般人とは異なるのではないかと考えてしまいがちです。しかし、グラント教授は根拠をもってそれに異を唱えています。彼らもまた、私たちと同じように、批判や恐れ、失敗や自己不信と闘い、苦しみ、もがき闘いながらリスクとのバランスをとっていたことを示しています。そして、過度ではない、適切なリスクをとることこそが、自分の優位性を確立できることを科学的に証明しています。
本業を継続しながら副業的に始めたほうが成功の確率が高い例として、有名なスポーツ用品メーカーである「ナイキ」があげられます。
ナイキを創業した、フィル・ナイトのもともとの仕事は、全く畑違いの公認会計士でした。しかも、ナイキを創業してから軌道に乗るまでの8年間は本業である会計士の仕事を続けていました。当時を振り返り、「スポーツシューズの販売よりも会計士の仕事で生活をしていた」といいますから、ナイキの経営者としての仕事は、少なくとも8年間は副業であったわけです。
安定と余裕がないままでリスクばかり取っていると、肝心なときになって、決断力が鈍ってしまいます。心のどこかで決断リスクと安定した生活とを天秤にかけてしまいます。その結果、自分の信じた決断を貫き通せずに、平凡で差別化できない、凡庸な道しか進むことができなくなってしまいます。
「ラストチャンスだけは失敗するな。しかし、それ以外は失敗しても問題ない」―。ナイキの創業者であるフィル・ナイトはこのようにいっています。
失敗しても問題ない。彼の生き方をみると実に考えさせられることばです。経営者として、一人の人間として、長い間苦労しながらリスクのバランスをとり、事業を軌道に乗せてきた。このような背景を読み取ることができるのではないでしょうか。
加藤 滋樹