「中身と形式」
コロナではじまった今年は、秋にやっと収束したかと思えば、再び変異したオミクロン株。今年もコロナにはじまりコロナに終わる年となってしまいました。この間、業績で揺らいだ企業は数多に上ります。コロナが完全に終息すれば、再び活力ある時代に戻ると予想されている方は少ないのではないでしょうか。どうも根本が変わってしまったと感じておられる方が多いのではないかと思うのです。
先日、日経新聞の一面にこんな記事が出ました。「御社の存在意義 何ですか」「我が社は何のために世にあるのか。この問いかけに今、世界の多くの会社が直面している」(出典 日経新聞2021年11月29日朝刊)というのです。今年の締めくくりとして業績を振り返るどころか、存在意義について考えなければならないというのです。ほとんどの人は日々の忙しさに追われ、存在意義について考えるのは稀です。私は二十歳からものごとの存在意義について考え続けていますが、かなりの変わり者だという自覚があります。しかし、どうもすべての人が働く意義、生きる意義を見つめなければならない時代がやってきたようです。
夏目漱石が明治44年に堺市で行った「中身と形式」という講演があります。私はこの講演記録を何度も読み返し、“なるほど”と思うのです。「いい大学に入って、いい会社に入って、家族を持ち、お金をためて、クルマ、家を買い、子どもを育てて、年相応の出世をする」。こうした価値観に基づく時代が長く続きました。まだ若者の多くが、このような価値観を持っていますが、私のみるところ3割ほどの若者はすでにこのような価値観を有していないように思われます。「会社に入って、家族を持たず、クルマを持たず、家は親の家に住み、出世も望まないか敬遠する。いい大学に入っても、大企業に入ってももう人生は保証されない」と考えています。まるで『中身』が変わってしまったといってよいでしょう。
会社を見れば、コロナ禍でこれまで順調だった業績が一気に崩れる。崩れるどころか存亡の危機に立たされる。サプライチェーンと囃し立て、世界の至るところを工場と見立て、最も安い所でものをつくらせることに成功した会社が、いまや広がったサプライチェーンの寸断で生産がズタズタになっている。また機関車役として産業を牽引してきた自動車産業がEVへのシフトで、明日の業界がどうなるか読めない。中国を最大市場として中国に注力してきた企業は、いまや中国の極端な変質を前に途方もない脅威に直面している。AIは産業をどんどん塗り替え、雇用の常識が変わろうとしている。環境に目を転じれば、地球までおかしくなってしまった。まったく不安定な時代に入ってしまったものです。
こうした数々の出来事を目にすれば、昔の『形式』に価値がないと感じる若者が増えるのも無理はありません。では私たちは何の価値も見いださずに人生を送ればいいのかといえば、そうでもありません。人生漂うだけになります。存在意義を見出せない会社では働く価値がなくなってしまいます。漱石は「種々の変化を受ける以上は、時と場合に応じて無理のない『型』を拵えてやらなければ」ならないといいます。いま必要なのは新しい混迷する時代に必要な『型』のようです。『昔の型』を守ろうという中高年と『新しい型』を探そうとしている若い世代がぶつかるのは自然なことです。ちょうどグレタ・トゥーンベリさんが大人に向かって、大人はこれまでの『型』を変えようと努力していないと非難する姿に似ています。漱石は「貴方方の問題であり、一般の人の問題でもあるし、最も多く人を教育する人、最も多く人を支配する人の問題でもある」とし、「傍観者でなく、若い人などの心持にも立ち入って、その人に適当であり、また自分にももっともだというような形式を与えて教育をし、また支配して行かなければならぬ時節ではないかと思われるし、また受け身の方からいえばかくのごとき新しい形式で取り扱わなければ一種いうべからざる苦痛を感ずるだろうと考えるのです」(出典「中身と形式」夏目漱石 講談社学術文庫)と指摘します。
来年は新しい形式を貴方自身が考えなければならない年になるのではないかと思います。
コロナ禍で無事に過ごすことができたことに感謝し、変異株がこれ以上、広がらないことを祈りながら、今年のご挨拶といたします。今年1年、ありがとうございました。
代表取締役 松久 久也