続けるものだけが意味を持つ
これは、前向きな思考実験ですので、皆さまにも実験をしていただきたいのです。なにも「10年後の目標」ということでもなければ、「10年後に本を出す」といったことで無くてもよいと思います。
あらかじめ、自分は「こういう人である」と厳格に定義をして、結論を先に決めておいて人生を縛るのは、変化が激しい現代においてあまり得策ではありません。それよりも、いますでに実践していて、恐らく10年後もやっているんだろうな、と思うことを念頭に旅路の先を想像するというのがよいと思います。
私たちは10年後、何をし続けているのでしょうか。
私の場合、10年前には今の仕事が想像できませんでしたし、10年後もこのように私論を述べる機会をいただけるかどうかも、わかりません(自費出版をするという手段を除けばですが)。
それでも、10年後もやっていそうだ、と思えるのは、紙媒体なのかインターネット上の媒体なのかは別にして、何かの媒体で文章を書いていることや、人と対話をしつつ新しい価値を生みだすこと。つまりは、書くことや伝えること、そしてコミュニケーションというものに対する慈愛というところに行き着きます。
「知的生活」という、昨年惜しくも亡くなられた文豪、渡部昇一氏のベストセラーのテーマがありました。渡部氏にとってのそれは、本を読み、本を書くための生活をどのようにして守るかという内容でした。どのように時間を守るか、知的生活を守る住居は?書斎はどうしたらよいか?人間関係は?配偶者は?食事はどうすべきか?という様々な領域を包み込んでいました。
無論、私自身は渡部氏に遠くは及びません。しかし思い返せば、他者の目に触れるブログやSNSのはしり、寄稿といったものは、2005年から書いていました。また、日記も同じころからスタートしたと思います。はじめは手書きでしたし、次第にパソコンに移行をしていきました。今も苦労をしていますが、伝え方の工夫を重ねつつ現在に至ります。
伝え続けること。すでになぜこれを続けているのかという理由は消えつつあります。それでも、自分が感じたニュース、会った人との感触、読んだ本のことを自分の中で咀嚼し、語ること。生みだすこととの苦しさも含めて、これが自分の習慣になっています。
続けるものだけが意味を持つ。余計な意味を付け加えることなく続けることができることだけが、人生において尊い意味をもっていくことに、ようやく気が付きつつあります。
加藤 滋樹