中部経済新聞に掲載されました
着眼大局 着手小局 経営に求められる人間力 第5回
「私のことなんて考えてくれていない。見捨てられていると思った」
ある会社の社長は、若手の社員と昼食を共にした際に、言われたそうです。当然、見捨てているような自覚は全くありませんでした。しかし、気持ちよくお仕事に取り組んでもらうため、出来る限り問題を起こさないよう、余計な事を言わず社員の気分を害さないよう、先回りして気を遣っていたのでした。
その社員の気持ちになって考えてみると、社長に対して、このようなことを言うのはとても勇気がいることです。社長からは「見捨ててはいない」というメッセージを伝えることで、その勇気に応える必要があります。個別に対話の機会を設けたり、一人ひとりに対して日頃のお礼のお手紙を書いたり、方法はいろいろと考えられます。世間を見渡せば心理学の手法やコーチングにもとづくコミュニケーションなど、信頼関係を構築していく技術はいくつもあります。しかし、技術よりも何か大切なことがある、と私は考えます。それは、松下幸之助氏がいう「素直な心」で相手と話すことではないでしょうか。経営者という職責で日々仕事に向かい、社員に接することも大切ですが、今回のようなときには、殻を脱ぎ捨て一人の人間として真摯に向き合うことが必要なのではないでしょうか。
伊勢神宮に程近い「修養団」という研修施設に社会教育家の中山靖雄さんという方がいました。中山先生は毎回、講演の際に参加者の名前と出身地を全て暗記し、当日の朝、伊勢神宮の神前にて報告した後に講演に臨んでおられました。翌朝は再度、全員分のお名前を報告してご多幸を願っていました。中山先生は晩年、脳梗塞を患い盲目の身となりました。しかし、やはり同じように参加者全員の名前と地名を覚えていました。事前に奥様がカセットテープに吹き込み、それを暗記していたそうです。そんな中山先生はご講演の中で毎回、「出会いを通して自分と出会う」と言っていました。
冒頭に紹介した社員と出会うことによって、その社長は何かに気づき、些細な一步かもしれませんが解決のために実践を重ねることで、新たな自分と出会ったのでした。「この世界は二つで一つ。話し手と聞き手と二つで一つ。だからこの二つの波長が合えば、どんな話もいいほうに進んでいけるものなのです」。中山先生はこのようにも伝えていました。
出会った方々、ご縁をいただいた方々の幸せを願いつつ、素直な心で日々生きていきたいものです。
加藤 滋樹